自分に対する厳しい言葉から逃げてはいけません

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人は,何かに苦しんでいたり悩んでいる時に,それを慰めてくれる意見を求める傾向があるように思います。
その言葉に慰められて一時の安楽を得ようとします。
そして,同種の苦しみや悩みを持っている人を見つけると,「共有」などという言葉で精神的な安定を図ります。

問題は,「共有」していると思える人が,おかれている状況に留まったままなのか,脱出した後の心境なのかを見極める必要があります。
脱出した人は,一筋の光明を見いだす手段を発見し,行動を開始したと思います。
参考とすべきは,悩みや苦しみの内容ではなく,その為の行動です。

私も,若い頃に上司と衝突し,疎んじられた時期がありました。
あからさまに他の人をひいきする場面にも遭遇しました。
その時,自分が奈落の底に突き落とされていく感覚がありました。

上司が,私の何を問題としてそのようなことをするのかわからなかったので,いよいよ苦しみは増していきました。
出勤するのも疎ましく,もう辞めようとさえ思いました。

そんな時は,自分は何とかしようとあがいているのですが,一向に解決しません。
その状況が続くと,だんだん疲弊してきて,同じ様なことで苦しんでいる人を探すか,慰めを求めようとします。

どうしようもなくなった私は,以前にお世話になった禅宗のお坊さんを訪ねました。
その方は,若い時から私を可愛がってくれ,一緒にお風呂に入ったり,ご自宅にも泊めてくれるような方でした。
そのような方でしたから,私は,自分の心情を吐露すれば,そうかそうか,と言って,慰めてくれるだろうと期待していました。

ところが,その方から返ってきたのは,

「何を生意気なこと言っている」
「自分を何様だと思っているのか」
「もっと周りを見て,自分より苦しい境遇にありながら,歯を食いしばって生きている人を見ろ」
「そんな人たちに比べたら,自分がどれ程恵まれた環境で仕事させてもらっているのかを考えろ」

というような厳しい言葉でした。
私は戸惑ってしまいうつむいていました。

その方は,慰めなどというものは一時の気持ち良さをもたらすだけで,何の解決にもならないことを知っていて,私を立ち上がらせるために,敢えて厳しい言葉を浴びせてくれたと思っています。
目を冷まさせるというのはこういうことをいうのだろう,と今は思います。

その日は,私の話を少し聞いてくれただけで,一方的に叱られただけでした。
あげくの果てに,もう話すことはない,と言って部屋を出て行かれました。

私が困っていると,奥様が入ってこられて,主人はあなたを憎いからあんなことを言ったんじゃない,と言われて,今日はお帰りなさい,と促されてお宅を出ました。

少しずつ頭が冷めてくると,その方が言おうとしていたことを理解できるようになりました。
それは,他人が聞けば厳し過ぎるととれたでしょうが,私は,その方の精一杯の「励まし」だったと思っています。
厳しい言葉の中にある愛情を感じ取れるようになった時,私は再び歩き出そうとしている自分を実感しました。

私は,あの時,「厳しい言葉」から逃げなくてよかったと思っています。
もし逃げていたら,上述のようなことはわからなかったでしょう。

愛情の表し方には色々あります。
優しい言葉だけが全てではなく,反対に,厳しい言葉の方がはるかに愛情がこもっている場合があります。
その時には反発を覚え,自分の中に入ってこないでしょうが,冷静になって考えれば,そこに含まれる真実に気づけるはずです。

本当に自分のことを考えて言ってくれる厳しい意見には,逃げないで真正面からきいて欲しいと私は思います。
それを言う人は,相手と縁が切れてしまうかもしれないという瀬戸際で話してくれているのかもしれないのですから。

後日,お礼に伺った時,私の顔を見て,もう大丈夫だ,とにこやかな顔で言われました。
あの時,何故あのような厳しいことを言ったのかを話してくれることなかったが,それは私の姿を見て,私が理解したと思われたからでしょう。
私は,改めて「自分のために言ってくれる厳しい言葉」から逃げなくてよかったと思ったことを憶えています。

自分のためにいってくれる言葉に謙虚になれば,その意味は必ず理解できるはずだと私は思います。

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