ぼくを磨いたあかりさん

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あかりさんは,大学の三年先輩で,女優の田中裕子に似ていた。

寮では,新入生が入ってきた時,歓迎コンパをやるのだが,それは,男子寮と女子寮の合同コンパだった。

二年生以上が全てを用意し,席も必ず先輩と相席となるようになっていた。

会場は,寮の真ん中にある食堂で,テーブルは四人一組になっていて,ぼくの左隣になったのがあかりさんだった。

あかりさんは,うっすらと化粧をしていて,優しそうな笑顔が素敵な女性だった。

ぼくは,相席なんて初めてだったから,女性が間近にいることに緊張してしまっていた。

あかりさんは,自己紹介してから,ぼくの名前を尋ねがら,ビールをコップに注いでくれた。

ぼくはすっかりのぼせ上がっていて,何を話したか憶えていない。

「一杯ついでくれる」

その声に従うように,硬くなりながらビールを注いだ。

「乾杯」

あかりさんは,ぼくのグラスに自分のグラスをあてると,それをゆっくり飲んだ。

その仕草は,とても優雅な感じがして,ぼくは自分の顔が赤くなっていくのじゃないか,と思った。

オードブルに何も手をつけないのを見て,

「何でもいいわね」

適当にとると,ぼくの前に置いてくれた。

「ありがとう」

ぼくはそう言うのが精一杯で,あかりさんの方を向けなかった。

少しして,あかりさんが,

「こんな場所ではふさわしくない話なんだけど」

と,きりだし,

「今,卒論の実験をやっていて,被験者が足りないの」

「時間がかかるものだから,帰りが遅くなると言って,みんな嫌がるのよ」

「だから,協力してもらえると有り難いんだけどなあ」

ぼくの方を見ながら,少し甘えるような声で言った。

講義に出席する以外は取りたててすることもなかったので,

「いいですよ」

「ありがとう」

「勿論,きちんとお礼はするわ」

あかりさんは,少しほっとした様子を見せて言った。

自分の研究室の場所を説明すると,

「夕方でもいい?」

「日中だと,他の人がいてうるさいし,落ち着いて出来ないのよ」

「いいですよ,どうせ暇だから」

と,言うと,

「じゃ,明日夕方五時に研究室に来てくれる」

「分かりました」

ぼくは,初めてのお酒で酔ってしまい,先輩が自室に連れて行ってくれた。

いや,むしろ,年上の女性のほのかな香りに酔っていたという方が正しいかも知れない。

翌日,約束の時刻に研究室に行くと,あかりさんは実験用の白衣を着ていた。

「早速やりましょうか」

と,言って,暗室のような部屋に促すと,

「そこの寝台に寝てくれる」

そう言って,横になったぼくのこめかみ辺りを濡れた脱脂綿で拭き,

「ちょっと痛いわよ」

何か針のようなものを何本か刺した。

「そのままで,私の言うとおりにしてくれる」

あかりさんは部屋を出ていき,スピ-カーからあかりさんの声が聞こえた。

「目を閉じて」

ぼくは指示通りに目を閉じた。

どれ程の時間が経ったか分からないが,あかりさんが部屋に入ってきて,

「今度は,私の指示通りに目をあけたり閉じたりして」

ぼくはあかりさんの言うとおりにした。

五分くらいして,部屋に入ってきたあかりさんが,

「はい,これで終わり」

「どうもありがとう」

「出来れば,あと二,三回つきあってくれたら嬉しいんだけど」

「分かりました」

「その代わり,ぼくの言うお礼をしてくれますか」

と,言うと,あかりさんは,警戒する様子もなく,

「あら,何かしら」

と,いたずらっぽく言った。

ぼくは,あの時,どうしてあのようなことを言ったのか思い出せない。

おそらく,ぼくは,コンパの時のあかりさんの印象が強烈で,それが忘れられず,思わず口走ってしまったのだろう。

全てが終わった時,あかりさんは,興味深げに,

「どんなお礼がいいの」

いかにも子供をあやすような口調で言った。

その口調は,あかりさんにとっては,ぼくが一人の「男性」ではなく,年下の「男の子」だということを示していた。

どうしようかなと思ったが,思い切って,

「ぼくとつきあって欲しい」

と,絞り出すような声で言った。

それは,ぼく自身も驚くほど大胆な言葉だった。

あかりさんは,まさかこんなことを言い出すとは思わなかったらしく,何も言わず,ぼくをじっと見つめていた。

ぼくは,その視線を感じていたたまれなくなり,うつむいていた。

やがて,

「それが,あなたがして欲しいお礼なの」

あかりさんは,微笑みながら優しい声で言った。

ぼくは黙っていた。

「でも,私につきあっている彼がいたらどうするつもり」

「わからない」

ぼくは,兎に角,自分の気持ちを吐き出さずにはいられなかったのだ。

あかりさんは,その場を取り繕うように,

「一晩考えさせてくれる?」

「明日,今日と同じ時間に来てくれたら,お返事するわ」

と,言った。

「わかりました」

と,言って,研究室を出た。

寮に帰る道すがら,自分の言ったことを思い出して,顔が火照ってくるのが分かった。

翌日,研究室に行くと,あかりさんは,

「私には,今つきあっている人はいないわ」

「だけど,卒論で忙しいから,どれほど時間が取れるどうか分からない」

「それに,私は,あなたを自分の気晴らしにしてしまうかも知れない」

「それでもいいんだったら,つきあってあげてもいいわよ」

と,言ってくれた。

ぼくのほっとした顔を見てとって,

「寮の玄関に,在寮と外出を示す名前の札があるわね」

「はい」

「時間がある時は,あなたの札の裏に伝言を書いて貼り付けておくから」

「わかりました」

その日,あかりさんとぼくはその話だけをして別れた。

土曜日の夕方,寮に帰ってきて,名札をひっくり返そうとすると,あかりさんの伝言が貼ってあった。

そこには,明日,十時に玄関で待つように書かれていた。

あの日以来,あかりさんを顔を見ていなかったから,どうなることかと心配していたのだった。

また,あかりさんが了解してくれたものの,女性をエスコートする術などは知らなかったから,不安になっていた。

翌朝,玄関で待っていると,あかりさんが,淡いピンクのブラウスとグレーのタイトなスカートをはいた姿で現れた。

それは,普段のジーンズのカジュアルな姿とは対照的だった。

いつもは後ろでまとめられている髪も,今日はおろされていて,ひどく大人の感じがした。

ぼくは,自分の服装が恥ずかしくなってしまい,あかりさんをまともに見ることが出来なかった。

あかりさんは,気にする素振りも見せず,

「いいのよそれで」

「でも男は彼女にはちゃんとしてて欲しいでしょ」

と,笑いながら言った。

その言葉には,過去につきあっていた男性の匂(にお)いがした。

「さあ行きましょう」

「あなたはこの辺りの地理には不案内だから,私が案内してあげる」

その言葉を聞いて,ぼくはほっとした。

あかりさんは,ぼくを京都へ連れて行き,三條や四條河原町を案内してくれた。

京都 三條

四條 河原町

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インド人が経営しているというカレー屋で食事をして,京都では有名なコーヒー専門店に行った。

あかりさんは,

「私は今バイトを殆どしていないから,あなたに奢ってあげるほどの持ち合わせがない」

「あなたもそうだと思う」

「だから,ここからはお互いに割り勘にしましょう」

と,言ってくれたので,気が楽になった。

実際のところ,ぼくはこんな場合どうしていいのかよく分かっていなかった。

あかりさんは,途中から腕を組んで,

「この方が恋人らしく見えるでしょ」

と,甘えるような感じを見せて言った。

その日は,少し早めに寮に戻ってきて,あかりさんは,

「じゃ,また伝言するから」

と,笑顔をみせると,女子寮に入っていった。

それから二週間あかりさんからの伝言はなかった。

ぼくは,卒論も佳境に入っていて,時間が取れないのかも知れない,と自分を納得させた。

こんな時,待つ方は長く感じ,待たせる方は,自分のことに忙しいほどその時間は短く感じる。

三週間目に入った土曜日,あかりさんから伝言があった。

玄関で待っていると,あかりさんがやってきて,

「ごめんなさいね,卒論が思ったよりたいへんなのよ」

と,少し言い訳するように言った。

「今日は,どこに連れて行ってくれるの」

甘えるように言うと,

「そうね,少し足を伸ばして大阪にでも行きましょう」

リードするのはあかりさんになっていて,ぼくはそれに従うだけだった。

ぼくは,相変わらずの服装だったので,あかりさんは,

「今日は,あなたの服でも買いに行こうか」

「そんなにお金ないよ」

「大丈夫,安くていいところはいくらでもあるから」

と,安心させるように言った。

田舎から着た切り雀の格好で出てきたぼくにとって,その言葉は有り難かった。

大阪に着くと,地下街に連れて行き,

「ここは,服屋さんが集まっているところだから,ゆっくり見て回りましょう」

何軒か見て歩いていたが,あかりさんは,何かを見つけたのか,

「ここに入りましょう」

と,言って,どんどん中に入っていった。

何点かの服を手に取っていたが,

「あそこでこれを着てみて」

と,言って,試着室を指さした。

わけがわからないまま試着してカーテンを開けると,あかりさんは,少し離れてぼくの姿を見て,

「あなたは,背が高いからよく似合う」

と,満足そうな顔で言った。

当時のぼくは,ファッションのセンスなどは持ち合わせていなかったから,そんなものかな,と思うだけだった。

それから,あかりさんとのデートは,ぼくのコーディネイトを増やすことに費やされた。

あかりさんは,決して値段の高い店には連れて行かず,服の組み合わせで多彩な格好が出来ることをぼくに教えた。

「学生なんて,社会人みたいにお金を持っていないから,お金と相談しながら,自分に似合う服を服をさがすのよ」

「それが,また楽しくなる」

「私の服だって高いものは一つもないのよ」

あかりさんは,自分をどう見せるかをよく知っていて,それをぼくに教えようとしていた。

「今度は,その服を着てどこかへ行きましょう」

三週間後の日曜日,あかりさんは,神戸の三宮に高架下の店にぼくを連れて行った。

神戸 三宮 高架下

「ここは,戦後の闇市の名残があって,輸入雑貨が沢山ある」

確かに,露天のような店には,知らない外国製品が沢山あった。

珍しいライターを手に取ると,

「ここで買ったら駄目よ」

「全部の店を見てから,一番安い店で買うの」

と言って,あかりさんは,次々へと店を見て回り,自分の小物を一番安い店で買っていた。

ぼくはライターを一つ買った。

それは,当時,学内では誰も持っていないジッポーのオイルライターだった。

ぼくは,買い物の面白さが分かり始めて,あかりさんに逢えない時は,市内のデパートや紳士服の店を回ったりしていた。

あかりさんは,相当忙しいようで,伝言はなかなかこなかった。

あかりさんからの伝言があったのは,年が明けた二月初めだった。

「卒論の締め切りが一月末だったから,時間が取れなかった」

「それに,担当の教官が厳しい人で,下書きを見せても,なかなか通してくれなかったの」

あかりさんは,少し疲れた様子で言った。

ぼくの姿を見て,

「随分センスがよくなったわね」

と,ほめてくれた。

「今日は,もう一度神戸に行って,足下(あしもと)を買いましょう」

高架下の店を回りながら,あかりさんが手に取ったのは,コンバースのスニーカーだった。

「少し高いけれど,長持ちして結局安い買い物になるからこれを買いなさい」

と,言って,それをぼくに渡した。

二月,あかりさんは毎週土曜日に伝言をくれた。

あかりさんとぼくは,京都のお寺巡りをして,京都大学近くの古本屋で本を買ったりした。

三月に入って,あかりさんの卒業が近づいたある夜のこと,京都へ行った帰り,寮が見えるところで立ち止まり,

「私は,一人娘だから実家に帰らないといけないの」

「父が,養子をもらえと言ってうるさいのよ」

ぼくの実家も一男一女だったから,帰って来いと言われていた。

「それじゃ」

「そう,ここからは別々の道を歩くことになるわね」

追いすがりたい気持ちはあっても,ぼくには,どうすることも出来なかった。

あかりさんは,ぼくの顔を引き寄せると,唇を合わせてきた。

その頬には,一筋の涙がつたっていた。

あかりさんが唇を離すと,ぼくは思わず泣いてしまった。

あかりさんは,ぼくの顔を自分の胸に抱き,

「一緒に出歩いた回数は少なかったけれど,私にはとてもいい想い出になったわ」

「これで,心おきなく卒業できる」

と,言った。

その一言は,ぼくをいたく刺戟したのか,感極まってあかりさんの胸で声を出して泣いた。

あかりさんは,ぼくの頭を撫でながら,

「男は,こんなことで泣いちゃだめ」

「これからもっと苦しいことを経験していくんだから」

と,諭すように言い,ぼくの顔をあげるとキスしてくれた。

退寮の日,他の下級生と卒業生を送り出しながらあかりさんを探した。

あかりさんは,ぼくを見つけ,ぼくに向かって軽く手を振ると,きびすを返して出て行った。

 

あかりさん,あなたは,ぼくに生涯忘れられないお礼をしてくれました。

ぼくは,服装というものが自分を表現する手段だということが初めて分かりました。

あかりさんのファッションセンスをどれだけ学べたかわからないけれど,ぼくは,服を買う度,あかりさんはどう思うかを考えています。

あかりさん,ぼくを磨いてくれて本当にありがとう。

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