日本会議について 2

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日本青年協議会の沿革で注目すべきは,下記の4つであると思う。

1.昭和41年(1966年):長崎大学で学生有志が左翼過激派学生と対峙し,学園正常化運動に立ち上がる。
2.昭和42年(1967年):「長崎大学学生協議会」結成。学園正常化運動の波が全国に広がる。
3.昭和44年(1969年):「全国学生協議会」結成。
4.昭和45年(1970年):橿原神宮で「日本青年協議会」結成(11月3日)。

これこそ,後の「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」並びに両者が統合することによってできた「日本会議」の源流である。
当時の時代背景が蘇る(分かる)世代の方には,その意味が理解できるだろう。

若い人達にとっては,それは現代史の中にあり,歴史として学んでいない限りは理解しがたいのではないか。
では,当時はどの様な時代だったのだろうか。
上記の時代を含む1955年(昭和30年)から1975年(昭和50年)までを振り返ってみよう。
下記の年表は,1995年毎日新聞社から発売された「戦後50年」から抜粋した。
又,下記の年表に上記の事柄を挿入してみる(赤字部分)。

■1955年(昭和30年)
(1)9/13 佐川基地拡張の強制測量で杭打ち,警官隊と地元反対派・「学生」が衝突
(2)11/15 保守合同,自由民主党結成(55年体制)
■1957年(昭和32年)
(1)岸信介内閣成立
■1958年(昭和33年)
(1)6/1 日本共産党は全学連幹部を除名
(2)12/10 日本共産党除名の全学連幹部が共産主義者同盟(ブント)結成
■1959年(昭和34年)
(1)3/28 日米安保条約改定阻止国民会議結成
■1960年(昭和35年)
(1)60年安保闘争
「安保闘争は,1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年),1970年(昭和45年)の2度にわたり日本で展開された日米安全保障条約(安保条約)に反対する国会議員,労働者や学生,市民および批准そのものに反対する国内左翼勢力が参加した日本史上で空前の規模の反政府,反米運動とそれに伴う政治闘争,傷害,放火,器物損壊などを伴う大規模暴動である」(ウィキペディア)
・1/16 全学連羽田闘争
・3/16 全学連分裂,反主流派(日本共産党系)閉め出す
・5/20 自民党,新安保条約を単独強行可決
・5/20 全学連,首相官邸突入
・6/3 全学連,首相官邸突入
・6/15 全学連国会突入で樺美智子死亡
・6/19 新安保条約自然成立
・7/15 岸内閣総辞職
・7月 全学連は日本共産党系,ブント,革共同の3派に分裂。ブントは戦旗派,プロ通派などに分派
・10/12 浅沼稲次郎社会党委員長が右翼少年に刺殺される
(2)三池闘争
■1961年(昭和36年)
(1)4/5 全学連中央執行部は革共同がブント戦旗派を吸収し,反帝・反スタ学生運動掲げる
■1963年(昭和38年)
(1)2月 革共同が革マル派中核派に分裂
■1966年(昭和41年)
(1)1月 早稲田大学学事闘争で155日スト(~6/23)
(2)7/4  閣議で三里塚新空港(成田空港)決定
(3)9/1  第2次ブント再建
(4)12/17 三派系全学連再建
※長崎大学で学生有志が左翼過激派学生と対峙し,学園正常化運動に立ち上がる
■1967年(昭和42年)
(1)2/19 全学連は,明大闘争を裏切った斎藤委員長を追放し,秋山委員長に
(2)8/15 三里塚の空港反対同盟は県庁座り込み
(3)11/12 第2次羽田闘争
※「長崎大学学生協議会」結成。学園正常化運動の波が全国に広がる
■1968年(昭和43年)
(1)1/29  東大医学部無期限スト突入(東大闘争の始まり)
(2)2/26  成田空港阻止三里塚集会,警官隊と乱闘
(3)3/28  東大卒業式中止
(4)4/15  日大闘争始まる
(5)5/27  日大全共闘結成
(6)7/2  東大安田講堂バリケード封鎖
(7)7/5  東大全共闘結成
(8)7/5  三派系全学連分裂,中核全学連と反帝全学連に
(9)9/30  日大全共闘系学生約1万人,古田会頭と翌朝に及ぶ大衆団交
(10)10/12 東大全学無期限ストへ
(11)11/22 東大での東大・日大闘争勝利決起集会に2万人
(12)12/29 東大・東教大(現筑波大学),次年度入試中止決定
■1969年(昭和44年)
(1)1/19 東大安田講堂落城
(2)2/18 日大バリケード封鎖全面解除
(3)8/3 大学運営に関する臨時措置法を自民強行採決
(4)8/18 広島大学封鎖解除
(5)9/22 京大時計台陥落
(6)10/31 文部省,高校生の政治活動禁止を通達
(7)11/5 赤軍派大菩薩峠で検挙
※「全国学生協議会」結成
■1970年(昭和45年)
(1)3/15 赤軍派議長・塩見孝也逮捕
(2)3/31 赤軍派,よど号を乗っ取り北朝鮮へ(よど号乗っ取り事件)
(3)8/4 革マル・中核派の内ゲバ殺人
(4)11/25 三島由紀夫,自衛隊市ヶ谷総監室で割腹自殺(三島事件
(5)12/18 京浜安保共闘が交番襲撃
※橿原神宮で「日本青年協議会」結成(11月3日)
■1971年(昭和46年)
(1)2/17 京浜安保共闘が真岡市で銃強奪
(2)2/22 三里塚第1次強制代執行(三里塚闘争)
(3)2/26 赤軍派(日本赤軍)重信房子がベイルートへ出国
(4)3/9  赤軍派資金集めにM作戦展開
(5)9/16 三里塚第2次強制代執行で3警官死亡
(6)11/10 沖縄でゼネスト,火炎ビン闘争で警官1人死亡
■1972年(昭和47年)
(1)1月 学費値上げ問題で全国86大学で闘争中
(2)2月 連合赤軍浅間山荘銃撃戦(浅間山荘事件)
(3)3/7 連合赤軍リンチ殺人事件発覚
(4)4/3 動労がマル生闘争処分に抗議し順法闘争
(5)5/30 ロッド空港乱射事件(奥平剛士,岡本公三)
(6)11月 早大生・川口君,内ゲバ・リンチ殺人
■1973年(昭和48年)
(1)7/20 丸岡修ら日航機乗っ取り
■1974年(昭和49年)
(1)1/31 シンガポールで日本赤軍ら石油タンク爆破
(2)9/13 日本赤軍ハーグ仏大使館占拠
■1975年(昭和50年)
(1)3/7 日本赤軍の西川純ら2人逮捕
(2)3月 革マル派と中核派の内ゲバ激化
(3)8/4 日本赤軍クアラルンプール事件
(4)8/5 獄中の坂東国男,西川純,佐々木規夫ら5人超法規的措置で出獄

既にお分かりのように,この時代は,全国の大学で東大闘争及び日大闘争を始めとする学園紛争が吹き荒れ,「新左翼」と呼ばれるグループが乱立した時代で,大学を占拠され,授業もまともに出来ない状態が続いていた。

そんな中にあって,椛島 有三らは,昭和41年(1966年),自身が在籍する長崎大学で,社青同解放派の支配下にあった自治会を,右派学生やノンポリを結集して学園正常化に成功し,翌年,「長崎大学学生協議会」を結成する。
この動きは九州の各大学に波及し,昭和44年(1969年),「全国学生協議会」として結実する。
ここに,「新左翼」に対するカウンターパートとして,「新右翼」が誕生した。

もう一度時系列で整理してみると下記のようになる。

■1960年(昭和35年):60年安保闘争

■1966年(昭和41年):※長崎大学で学生有志が左翼過激派学生と対峙し,学園正常化運動に立ち上がる

■1967年(昭和42年):※「長崎大学学生協議会」結成

■1968年(昭和43年)
(1)1/29 東大医学部無期限スト突入(東大闘争の始まり)
(2)4/15 日大闘争始まる

■1969年(昭和44年)
(1)1/19 東大安田講堂落城
(2)2/18 日大バリケード封鎖全面解除
※「全国学生協議会」結成

■1970年(昭和45年)
(1)3/31 赤軍派,よど号を乗っ取り北朝鮮へ(よど号乗っ取り事件)
(3)11/25 三島由紀夫,自衛隊市ヶ谷総監室で割腹自殺
※「日本青年協議会」結成(11月3日)

■1974年(昭和49年):「日本を守る会」(神道系が中心)結成

■1981年(昭和56年):※「日本を守る国民会議」結成(事務局)

■1997年(平成9年):※「日本会議」(「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」が統合)結成

これを見ても分かるように,まだまだ新左翼の嵐が吹き荒れる最中の1970年(昭和45年)に「日本青年協議会」を結成している。
この時は,既に長崎大学を離れており,謂わばプロとしての独立である(以後の活動は前の記事の年表を参照)。

椛島 有三は,長崎大学での経験で,「新右翼」の在り方を学んだのではないだろうか。
彼以前の右翼や新左翼は手段として暴力を用いるだけであり,又,それぞれのセクトが活動するだけであった。
そのような活動方法は社会に嫌悪される(受け入れられない)だけで,目的を達成することは出来ない。

即ち,一般大衆を如何に味方につけるかが運動の要諦である,と彼は気づいた違いない。
それには,あくまで合法的な行動を取りつつ,底辺の大衆に潮流を起こし,その流れを中央へと向ける方法が肝要であると考えたのではないか。
現に,「日本青年協議会」を結成以後は,全国ヘキャラバン隊を派遣したり,シンポジウムを開催すること等を活動方針としている。

この手法は,今までの団体にはない方法だったと思われる。
又,1981年(昭和56年)に結成された「日本を守る国民会議」では事務局を担当し,自らは決して表に出ず,裏方に徹することによって,実質的に運営を行っている。
何故なら,表に出てくる(役員などの)著名人は己の考えは述べることは出来るが,必ずしもそれを実現する手段を持ち合わせているわけではない。

私に言わせれば,それを実現する部隊を統率し,動かせる人物こそ,真の頭(かしら)である。
その為に,椛島は,自らの「日本青年協議会」のメンバーを手足に使い,目的を実行しようとしている。
「日本会議」の公式サイトにある「草の根運動」も,椛島 有三が長年培ってきた手法であろう。

椛島 有三は,自らは,敢えて陰に回ることによって,言葉を換えれば,看板になっている人達や運動体の実務を引き受けることによって,自らの目的を達成しようとしているのではないか。
そうであるならば,何もカリスマ性などは必要ない。
それは一時の熱狂を生むかも知れないが,実質性は担保されない。

それよりも,法治国家における「法制化」を目的とする方が遙かに実質性がある。
逆説的に言えば,何事も「法制化」されなければ,実質性はないのである(それは,単に己の主張にすぎない)。

結論として,日本会議の実質的な頭目は,椛島 有三であり,その源流は,長崎大学での学園正常化運動にあったと言えるだろう。

彼のことを「しつこい」とか「学生時代から成長していない」と論評する人がいるが,私は決してそうは思わない。
普く,どの様なことであれ,大志を実現しようとすれば,しつこいほどの粘り強さが必要であり,何があってもその信念を変えない強さが必要となる。
自分と相容れない部分があるからといって,相手の特質を見誤ってはならないと私は思う。

上述のように,日本会議を取り巻く人物の背景には,学生運動の激しかった時代がある。
日本会議は,当時の向かおうとした方向に対して,言い換えるならば,日本が共産化されかねないという危機感から,新左翼に対して「否」と答えを出した人達の集合体である。

その集合体の目指すものが「新憲法制定」であるらしい。
それは,当時の GHQ から押しつけられたものであり,故に,従来の天皇の地位や,軍隊も否定されたものであるから,天皇を国家元首とし,自衛隊を「国軍」と位置付けて,文字通り「独立した日本」を作るべきであるという。

又,現在の乱れた状況の根本には「現行憲法」の存在あるともいう。
外国人特派員協会の記者会見での「日本会議会長・田久保 忠衛氏」の憲法観を聞いてみるといい(下の動画)。
憲法に対する日本会議の考え方がよく出ている。

私が,不思議に思うのは,「独立した日本」は「国軍」を持たねばならないといいながら,「日米安保条約」についての言及が一切ないことである。
独立するならば,米国によって守られている(と思っている)状況を真っ先に検証するべきではないのか。
即ち,対米従属の象徴が日米安保条約であるという考え方もある中で,日米安保条約の破棄が前提条件にないと,日本は名実ともに独立した存在にはなれないのではないか。

勿論,東アジアの防衛体制を考えた時,米国と連携するためにも「日米安保条約」は必要であるという反論もあるだろう。
しかし,それは日米安保条約成立過程からしても詭弁である。
それならば,何故日本は米軍の駐留費用を負担しているのか。対等であるならば,防衛上駐留は仕方がないとしても,その費用まで負担する必要はないだろう。
そのような問題に意図的に触れることを忌避しているならば,日本会議のいう「独立した日本」は,極めてご都合主義と言わざるを得ない。

戦争を知らない世代が,あの時代の新左翼に対する怨みを晴らそうとしている,と感じてしまうのは,私だけだろうか。

 

(参考)
(1)ウィキペディア:全日本学生自治会総連合
(2)ウィキペディア:全学共闘会議
(3)東京新聞:ベストセラー「日本会議の研究」異例の出版差し止め決定
(4)毎日新聞:稲田氏,籠池理事長夫妻から政治献金認める

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