まず,2016年2月8日に行われた衆議院の予算委員会で,民主党の奥野総一郎氏が行った,放送局における放送法の解釈についての国会質問の動画を見て(聞いて)頂きたい(全文はここにあります)。
又,高市総務大臣に対する放送人の緊急アピールはこちら。
この放送人のアピールは,主眼が「言論の自由」にあり,それを保証する場がテレビであるとの見解だと思うが,テレビは放送法によって「政治的に公平」という規制を受けている。
従って,テレビは「言論の自由」を保証してくれる場ではない。
放送法第4条は以下の通りである。
(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条 放送事業者は,国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては,次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については,できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
この「二 政治的に公平であること」をめぐり,高市総務大臣が「電波停止発言を行った」として放送人の緊急アピールが行われ,新聞各紙も取り上げた。
具体的には,上記全文の中の下記の部分をさすのだろうか。
「どんなに放送事業者が極端なことをしても,仮にそれに対して改善をしていただきたいという要請,あくまでも行政指導というのは要請になりますけど,そういったことをしたとしても,公共の電波を使って,まったく改善されないということを繰り返した場合に,それに対して何の対応もしないということを,ここでお約束するわけにはまいりません。
そこまで極端な,電波の停止にいたるような対応を,放送局がされるとも考えてはおりませんけど,法律というのはやはり法秩序をしっかりと守ると。それで違反した場合には,罰則規定も用意されていることによって,実効性を担保すると考えておりますので。
まったく将来にわたってそれがありえないとは断言できません。」
「放送事業者は放送番組審議機関を設置して,放送番組の適正を図るために必要な審議を実行することが規定されていて,放送事業者の自主自律によって放送番組の適正を図るということになっております。
しかし,このような取り組みにもかかわらず、放送事業者が放送法の規定を遵守しないという場合には,放送事業者からの事実関係をふくめた報告をふまえて,昨年私が行ったような行政指導を,放送法を所管する総務大臣が行うという場合もございます。
先ほどの電波の停止,私のときにするとは思いませんけれども,将来にわたってよっぽど極端な例,放送法の,それも法規範性があるものについて,何度も行政のほうから要請をしても,まったく遵守しないという場合には,その可能性がまったくないとは言えません。
やはり放送法というものをしっかりと機能させるために,電波法においてそのようなことも担保されているということでございます。
実際にそれが使われるか,使われないかは,その事実に照らしてその時の大臣が判断することになるかと思います。」
この2つの発言が「電波停止発言」と報じられたのだろう。
では,「政治的に公平」か否かはどこが判断するのか。
高市発言では,「行政指導」となっているので,総務省(総務大臣)になる(「昨年私が行った」と述べている)。
一口に「公平」といってもその定義は難しいと思う。
何に基準をおくのかによって,公平か否かは変わってくるだろう。
このような経緯があったためかどうかは分からないが,何より政府・自民党からのクレームが来ないことを至上命題にして,放映内容の自粛に拍車をかけたのではないか(萎縮といっていいかも知れない)。
これが最も厳しいムチである。
次は,アベ友になっている放送局の上層部に対する比較的柔らかなムチである。
例えば,
「この前の○○ワイドショーの中での××氏の発言はちょっとねぇ」
と言われると,忖度して出演を取りやめる。
忖度しなければ,アベ友として次からは招待してもらえない。即ち,アメをもらえなくなってしまう(アベ友をステイタスと考える人間は益々忠実になる)。
又,官房長官がオフレコと称して記者クラブの方々と懇談を行い,上述の発言をするとどうなるだろうか。
出席した記者は,上司に官房長官の発言を報告するだろうし,報告を受けた上司は,忖度した内容を現場に下ろすだろう。
即ち,上からも下からも柔らかなムチを使う。
アメとムチの使い分けが非常に巧みだと思う。
このような状況が続くと,渦中の人間は,常時監視されているのではないかと感じるに違いない。
勿論,証拠はないのであるが,漠然とした恐怖というか不安は,人をコントロールする為に役に立つ。
高市発言に対して,メディアが一斉に反発し,発言を撤回させることが出来なかったのは,既に十分アメをなめさせられており,且つ,ムチが効いていたからではないかと思わせる(もしそうだとすれば,図らずもその効果を示したことになる)。
更には,強力なボランティアが存在し,彼等が一斉に行動してくれる。
ここまで攻め立てられると,現場は疲弊してしまうだろう。
支配する側は,自らが直接的に末端までその影響を及ぼす必要はないのだ。大きな権限を持つ者を支配(組織でいえば,社長→部長→課長→係長→一般社員という風に)すれば,自動的に末端まで支配できる。
私は,安倍政権にはこの辺のキモをよく分かっている者がブレーンにいるのではないかと考えている。
どうにも,従来の政権とは何かが異なっているような気がしてならない。
では,放送法第4条の3の「報道は事実をまげないですること」というのはどうか。
事実を曲げないで報道することによって,政治的に公平にならない場合もあろう。その様な場合,どうバランスを取るのか。
私は,萎縮が講じてくると,政治的な公平>事実の報道となるのではないかと思う。
つまり,政治的な公平を担保できないから事実を報道しなくなる。
又,事実を反証されたような場合は一巻の終わりである。
例えば,あるデモの参加者数を主催者発表で報じたとする。
それは事実に反するので,警察発表で報じろと言われればどうするか。
トランプ政権就任式の参加者数発表が典型的(メディアがオバマ政権よりも参加者が少ないと報じたのに対し,トランプ側は過去最高と反論した)。
オルタネィティブ・ファクトである(このことが原因となり「1984」が売れ始めた)。
こんなのは言いがかりじゃないかと思われる方もあるだろう。
しかし,権力を持っている側が執拗にやったらどうなるだろう。
それはもう言いがかりなどではなく,相手の思想的な強制と思ってしまわないだろうか。
メディアがここまで追い込まれているとは思いたくないが,森友学園問題が2月に発覚してからテレビをよく見るようになった私でさえ,その奇妙さが分かるのだから,相当重傷ではないかと思う。
もう,一放送局が孤軍奮闘すれば何とかなる段階を超えているのかも知れない。
とするならば,我々は安倍政権が終わるまでメディアの正常化は望めないのだろうか。
(参考)
(1)毎日新聞:高市氏の「停波」発言 ホントの怖さ
(2)houko.com:放送法