最近,マスメディアで「下流老人」の特集が組まれたりして,何か一億総下流になりそうな雰囲気になっています。
では,「下流老人」の定義は一体何でしょうか。
この言葉は,藤田孝典氏が,「下流老人-一億総老後崩壊の衝撃-」の中で定義された造語で,「生活保護基準相当で暮らす高齢者およびその恐れがある高齢者」とのことです。
この出版をきっかけに,マスメディアが一斉に飛びつき,最早流行語になってしまっています。
しかし,これは何処で生活することを基準としているのでしょうか。
東京都を基準とされているようですが,私に言わせれば,何故生活費の高い東京都に住まねばならないのか。
そうすると,東京都に住んでいない人は,既に「下流にある」ことになります。
私は,片田舎に祖父が建てた築80年の家に住んでいます。
大学は下宿をしましたが,卒業してからはこの家です。
職場の上司や同僚から,
「もっと便利な所に引っ越したら」
と言われましたが,私は頑としてその意見を受け入れませんでした。
私には,特段不便ではなかったし,借金までして,その人達が言うところの「便利さ」を求めたいと思いませんでした。
寧ろ,何が便利なのかの価値観が異なっていたという方が正確な表現かも知れません。
この様な所に住んでいる私は,「下流老人」予備軍でしょうか。
前述の論理から言えば,私の周りに住む年配の方は,東京都に行けば全て「下流老人」でしょう。
しかし,道で出会えば,おだやかな顔で挨拶をしてくれますし,要介護老人は全くいません。
広報の死亡欄を見ても,ほぼ80歳を超えており,中には100歳近い方もおられます。
綺麗な空気と四季のはっきりした風光明媚な自然。映画館や有名レストランなどはなくても,豊かな暮らしは出来るのです。
ある一定の基準に合わないからといって,それを異端視するのはとても危険なことです。
そこには,「多様性」を認めない極めて狭い価値観があります。
あなたにとって「豊かさ」と何ですか。
この問いに,あなたはどう回答するでしょうか。
一例として,挙げてみます。
1.お金が沢山あること
2.家を所有していること
3.いい身なりが出来ること
4.いい車を所有していること
5.子供に恵まれていること
1から5までを満たしている人は本当に「豊か」なのでしょうか。
それは,本人の考え方次第でしょう。
換言すれば,「自分は豊かである」と思えば「豊か」であり,そう思わなければ「豊かでない」だけのことです。
全ては,自分がどう考えるかにかかっているだけで,まわりとの比較ではありません。
松下電器(パナソニック)創業者の松下幸之助氏が,ダム経営の講演で,
「どうすればダム経営が出来ますか」
と質問を受けました。
聴衆は,何かノウハウを教えてもらえると期待しましたが,松下幸之助氏の回答は,
「ダム経営をやろうと思うことですな」
でした。
一同は落胆したような顔をしましたが,その中にその言葉に衝撃を受けた方がいました。
それは京セラの創業者稲森和夫氏でした。
「全ては思わないと始まらない」
即ち,「やろう」と思うのか「やれない」と思うのか。
それは,自らの姿勢の在り方の問題なのです。
稲森和夫氏は,そこに気づいたのです。
「豊かさ」も同じではないでしょうか。
全ては,何かと比較するからおかしくなるのであって,まわりの価値観に振り回されてしまい,自分を見失ってしまう。
若い時に上司の出張に同行した際,たまたま有名な高級住宅地を通りかかり,上司が,
「ここは,この地域では指折りの高級住宅地だ」
と教えてくれました。
私は,
「ああそうですか」
と応えました。
私の興味をひかないので,上司はそれきり黙ってしまいました。
その時私が思ったのは,妬ましさでも羨ましさでも何でもなく,単に「そこに住みたい人は住めばいい」だけで,自分は住みたいとは思わないというものでした。
かくいう私も,若い頃(大学生時代)は自分は不幸だと随分悩んだ時期がありました。
まわりの友人は楽しそうにしているのに,どうして自分だけが楽しくないのだろう。
何かが違う。
けれどもその何かが分からない。
漠然とした不幸感。
当時,私はアルバイトをしていて,年上の社会人の女性とつき合っていました。
彼女は,私にお金がないのを知っていましたから,本当に何もかも面倒みてくれました。
甘えん坊で我が儘だった私は,彼女に好き放題言っていました。
私が,そんな心境をぼやくと,彼女は真顔になって,
「じゃあ,あなたにとって幸福とは一体何?あなたの友達が幸福だってどうして分かるの」
と言いました。
「だって,みんな楽しそうにしているし」
「一度でも,その友達にわけをきいてみたことはあるの」
「ないよ」
「だったら,必ずしもそうとは限らないじゃない。周りの人を見て,あなたがそう思っているだけかも知れないわよ」
彼女が言いたかったのは,根拠のない漠然としたものに振り回されるなということでした。
ものごとを定義づけたところで,それは一部でしかない。
その一部に振り回されることで,全体が見えなくなる。
その罠に陥ってしまうことが最も危険なことだと。
『「日本の中流」といえば,豊かな暮らしの象徴。もちろん自分もその一員だ。人並みに家を買い,子供を育てる-なんとなくこう考えている人が,老後に真っ先に「下流」へ落ちる。時代は変わった。』
これは,あるウェブサイトの中の一文です。
日本の中流=家を買える,子供を育てる=豊かな暮らし,という図式ですね。
この定義からすれば,「家を買わない」,「子供を産まない」人も中流ではないことになります。
自らの意思で,「○○をしない」という選択を全く評価していない。
私の例でいえば,「そこに住みたいとは思わない」という意思は無視されることになります。
上述の質問で言えば,1から5の全てを「選択しない」人は,全く豊かでないことになります。
注意すべきは,選択「出来ない」のと選択「しない」では同じ意思でも意味が異なるということです。
前者は,意思としては選択したいが,何らかの理由のため「出来ない」のであり,後者は,選択出来るが,「しない」方を意思表示している点です。
物事は一旦定義づけられると,冷静に考えれば,この世に絶対的な事(絶対的なことは人は「死ぬ」ということくらいです)なんかあり得ないのに,ともすればそれが「絶対的価値観」のように思えてきます。
やがては,それが,「○○しないとおかしい」,「○○でなければならない」という義務感に置き換えられ,悪くすれば,その強迫観念に飲み込まれてしまう。
ある時,私が計量カップで水を飲んでいると,それを見ていた家内と娘が,「お父さん,おかしい。計量カップで水を飲むのを信じられんわ」と言いました。
彼女たちの計量カップの定義は,何かを計るものであって,水を飲むものではない。
しかし,用途からすれば,水を飲むことも可能ですから,私はコップの代わりに使用したに過ぎない。
彼女たちの定義は狭く,私の定義は少し広い。
他の例を挙げれば,「お風呂用洗剤」,「トイレ用洗剤」があるとします。
その成分をよく見てみると,全くといっていいほど変わりませんね。
メーカーからすれば,家内と娘はいい客です。何故なら,用途別に2つ買ってくれるからです。
私は,この2つを兼用できるものを探すか,どちらか一つを買って使い回します。
ドラッグストアで売っている医薬品でもそうです。同じ成分なのに,用途別に名前を変えて販売しています。
もう一つの効能を書き足せばいいのに,名前を変えることによって売上は伸びます。
目先の不安にとらわれるほど,視野狭窄に陥り近視眼的な思考しかできなくなってしまう。
1年生に6年生の算数を教えても出来ませんね。みんなそれは普通だと思っている。
今出来ないことがあっても,それは終生出来ないとは限りません。
「今出来ないから云々」,その様な価値観に煽られ,自分が本当に求めていたのは何かを益々見失う。
現代は,情報過多の時代にあって,自分にとって真に必要な情報は何かを取捨選択できる力を養うことが求められているように思います。
そして,周りがいかに一元的な価値観を振り回そうとも,必ず対極があるはずだと冷静に考えて対処する姿勢を持つことです。
それは,ともすれば,周りと全く異なる答えかも知れません。
しかし,それを怖れていては,本当の自分はいつまで経っても訪れることはないと思います。
(参考)
(1)現代ビジネス:【衝撃レポート】下流老人に一番なりやすいのは「年収700万円世帯」だった!
(2)Ironna:「下流老人」にふるえる日本人
(3)Yahoo News:増え続ける「下流老人」とは