ぼくに音楽を教えた杏子さん

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杏子さんは,ぼくがバイトしていた本屋の隣にあるレコード店にいた。

そのレコード店は,京都に本社がある関西では割合有名な店だった。

杏子さんは,髪をショートカットしていて,化粧も殆どしていないボーイッシュな感じの女性だった。

化粧っ気がないにもかかわらず,肌が白く,目鼻立ちがはっきりしていて端正な顔立ちをしていた。

どことなく女優の真木よう子に似ていた。

毎月,音楽関係の本を買いに来るので,時々言葉を交わした。

渇いたはりのある声で,ぶっきらぼうに。

「これちょうだい」

というのが癖だった。

ある日,ぼくが応対すると,顔をのぞき込んで,

「あなた新人ね」

「暇な時,お店に来てもいいわよ」

「どうせ,平日なんて客は来ないんだから」

と言った。

その店では,時々音楽を流していて,杏子さんが選曲しているようだった。

「こんな音楽かけちゃだめだよ」

「どうして?」

「誰も知らないじゃないか」

「いいじゃないの。客なんていないんだし」

と,店長と言いあっている声が聞こえた時もあった。

ある日,杏子さんがやってきて,

「明日,今度出したアルバムの販促で,ある歌手の女の子が店に電話してくるんだけど,出てみない?」

と言った。

「ぼく,その人よく知りませんよ」

「いいのよ。あなたの大ファンですとか何とか適当なことを言えばいいの」

「向こうもマネージャーに言われてやってるだけだから」

「でも,全く知らないというのも何だから,お店が終わったらきかせてあげるわ」

と言って,店に戻っていった。

仕事が終わって店に行くと,店長はもう帰ってしまったのか,杏子さんしかいなかった。

「店長は,夕方から本社の会議で出張。だから,あたし一人ってわけ」

杏子さんは,その歌手のアルバムを取り出し,プレーヤーの針をおとした。

きこえてきたのは,とても澄んだ声で,音域も広いのか,声に伸びがあった。

「この子は,とても歌がうまいのよ」

「そうですね」

何曲か聴かせてくれた後,

「だいたい分かったでしょ」

「はい」

「他の音楽も聴いてみる?」

「いいんですか」

杏子さんは,レコードが並べられている棚の所に行って,一枚のアルバムを持ってきた。

それは,ぼくが今までに聴いたこともない曲だった。

とてもアップテンポで,色々な楽器が混じっているらしく,一音一音がよく分からなかった。

「これは,むこうの有名なグループ」

「あなたは,聴いたことがない,という顔をしてるから,今度教えてあげる」

曲が終わると,店内には静寂が戻ってきた。

「今日はもう遅いから帰りましょう」

「明日,電話がかかってきたら呼ぶから宜しくね」

と,軽くウインクした。

翌日,杏子さんに呼ばれて,話をしたが,彼女の声は甘ったるく,とてもレコードで聴いたイメージではなかった。

それがきっかけになって,ぼくは,昼休みの時などに,店に遊びに行くようになった。

杏子さんは,きいたこともない音楽をかけては,その説明をしてくれたが,余り理解できなかった。

「難しいことなんか考えなくてもいい」

「きいてみて,フィーリングに合えば,それがいい音楽だし,合わなかったらつまらないだけのことよ」

横にいた店長が,

「この子は,有名な音大の声楽科を出てるのに,その道に進まずにこんなところに就職してきたんだよ」

と言うと,

「いいじゃない。そんなに簡単に食べられないのよ,あの世界に進んでも」

「それに,一つのジャンルしか知らないのも嫌だし」

杏子さんは,店長が言ったことを咎めるような口調で言った。

もうすぐ,昼の休憩になるので,杏子さんが,

「下の喫茶店でお昼ご飯にしましょ」

と誘うので,店長に許可をもらい,杏子さんについて行った。

席に着くと,杏子さんは,テーブルに両肘をついて,組んだ手にあごをのせながら,ぼくをまっすぐ見て,

「今,何年生?」

「三年生です」

「そうすると,二十一か。あたしより四つ下なのね」

「どうしてそんなことをきくんですか」

「いいじゃない」

と,明るく笑った。

「杏子さんこそ,音大出てるのに,どうしてレコード屋にいるの」

「男って,みんな同じような質問するのね」

「だって,それって普通じゃないよ」

「普通か。あたし普通ってよく分からないのよ」

何か言いたいようだったが,ちょうど,ウエイトレスが料理を運んできたので,

「もうやめよう。こんな話」

と,真顔になって言った。

食事が終わると,

「何か飲む?」

「じゃ,コーヒーを」

杏子さんは,マスターの方を向くと,

「コーヒー二つ」

と言ってから,ぼくの目を見つめ,

「音楽って面白いわよ」

「色んな世界を見せてくれる。何度もきいていると,その人が表現したいものが何となく分かってくる」

その言葉には,音楽を人生の柱にしている者だけが知っている奥深さを感じさせるものがあった。

「ぼくにはよく分からないけど」

「そうね。あたしも最初はそうだった」

杏子さんは,壁に掛けられている時計に目をやると,

「あら,もうこんな時間」

と言って,伝票をつかむと,席を立ってレジの所に行った。

「いくらですか」

「いいの。誘ったのはあたしだから」

と,白い歯を見せて言った。

杏子さんの横顔は,どこか意志的なところがあり,それが杏子さんを中性的に見せていた。

それ以来,仕事の時には,店から流れてくる音楽が耳に入り,いつの間にかきき入ってしまう自分がいた。

杏子さんは,いつも昼食を誘いに来て,ぼくに音楽の話ばかりした。

ぼくはもっぱら聞き役になっていて,よくわからないものだから,

「そんなにたくさんのことを言われても,イメージわかないよ」

と言うと,杏子さんは,少し悲しげな様子を見せ,

「そうね。こんな話ばかりじゃ飽きちゃうよね」

と,自嘲するように言った。

その後,杏子さんは,しばらくぼくを誘いに来なかった。

店にいる杏子さんのようすをうかがうと,伏し目がちになって元気がなさそうに見えた。

杏子さんは,ぼくの言葉に拒絶を感じとって,距離をあけようとしているのかと思った。

そう考えると,杏子さんに申し訳ないことをしたと思い,昼食を誘いに行った。

「杏子さん,お昼ご飯しに行こうよ」

と言うと,ためらっているようだったが,意を決したように,

「わかった」

と,うつむいて言った。

相変わらず,音楽の話ばかりだった。

音楽の話をする杏子さんの表情は生き生きとしていて,この女(ひと)は本当に音楽が好きなんだ,と思わせた。

「この前はあんなことを言ったけど,杏子さんの話がいやだった訳じゃない」

「実際にその音楽をきいていないから,杏子さんのもっているイメージについていけなかっただけなんだ」

「わかってる」

「いつもそうなの。自分のイメージが先走って,相手とシンクロしてないことに気がつかないのよ」

「というより,自分の話に酔ってしまって,目の前に相手が居ることを忘れてしまうのかも知れないわ」

その表情は,いつも何かをあきらめてきたということを言外に示しているようだった。

この女(ひと)は,音楽を語ることで自分を受け入れてもらおうとしているのかも知れない。

音楽の話をする時の杏子さんは,幼い子供が母親に何かを夢中になって話す時の様子に似ていた。

子供は一生懸命話すのだが,手を止められてしまった母親は,少しきいていたと思うと,おかあさんは今忙しいから,と言って,子供の話を遮ってしまう。

遮られ続けた子供は,話したいことがあっても,どうせきいてもらえない,と思って話さなくなっていく。

杏子さんも,同じ様な経験を何度もしてきて,ぼくの言葉にそれを感じ,心を閉ざそうとしていたのかも知れない。

ぼくが,

「話だけじゃイメージしにくいから,その音楽をきかせてよ」

と言うと,杏子さんは,花が咲いた時のような明るさをその顔に見せ,

「じゃ,今度,あたしのアパートに来る?」

「いいけど,大丈夫?」

「何が」

「誰か一緒にいるんじゃないの」

「誰もいないわよ」

杏子さんは,かぶりを振ってそれを否定した。

その顔には,やっと自分を理解してくれそうな人間を見つけたという風な,期待の表情があった。

杏子さんとぼくの店は,大きなスーパーの中にあったので,休みは一緒だった。

杏子さんのアパートは,職場から歩いて二十分くらいのところにある五階建ての建物だった。

部屋は,五階の一番奥で,杏子さんは,

「両側にお隣さんがいると,うるさいって言われそうだから,端の部屋にしたの」

と,カギを差し込みながら言った。

「どうぞ」

「おじゃまします」

「何もない部屋よ」

杏子さんの後について行って,招じ入れられた部屋を見て,ぼくは驚いた。

右側には,三段になっている棚があり,それは部屋の奥まで続いていた。

棚には,全てLPレコードが収められており,その枚数はちょっと見当がつかなかった。

左の棚を見ると,音楽関係と思われる本があり,いつも買いに来る本もそこにあった。

「何もないでしょ」

と,杏子さんは少しはにかみながら言った。

確かに,音楽にまつわるもの以外は何もなかった。

正面を見ると,いかにも高そうなステレオコンポーネントが鎮座していた。

<だから,音楽のことになると夢中になるのか>

ぼくは,杏子さんの正体が何となく分かったような気がした。

ステレオの前のソファーにぼくを座らせ,自分も横に座ると,

「もうわかったでしょ」

「あたしには,これ以外何もないのよ」

「それにしてもすごいですね」

「年一回,会社は売れ残ってしまったレコードを処分するの」

「それを社員に譲ってくれるんだけど,誰も売れ残りなんて買わないじゃない」

「それを買っているうちに,こんなになっちゃった」

と,杏子さんは,ぺろっと舌を出していった。

その顔は,いつもみている中性的なそれではなく,初めて裸の自分を見せた女性の恥じらいがあった。

「お腹すいたわね。何か作ってくる」

と言って,部屋を出ていった。

ぼくは,待つ間,棚のLPを取り出し,ジャケットを見たが,それは知らないミュージシャンのものばかりだった。

杏子さんは,

「昨日の残りのご飯があったので,チャーハン作ってきた」

と言って,それをぼくの前においた。

「正直言うと,あたしは音楽しか知らないのよ」

「中学卒業まではピアノで,高校に入るとコーラスに夢中になって,気がついたら音大に入ってまた音楽」

「入った会社が音楽関係で,いつのまにかこうなってしまったってわけ」

話している杏子さんの横顔は,少し寂しげで影があった。

「何人か好きな人ができたけれど,この部屋に案内すると,みんなひいちゃって」

<そうだろうなあ>

ぼくも,一瞬ひきそうになったもの。

「何かきかせてよ」

「そうねえ」

ちょっと思案していたが,一枚のアルバムを取り出すと,プレーヤーにセットし針をおとした。

流れてきたのは,当時(70's)日本中を席巻したといわれる Eagles(イーグルス)の Hotel Calihornia(ホテルカリフォルニア)だった。

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「これなら知ってる」

この曲は,スナックや銭湯でさえも流れているといわれていた。

杏子さんは,ジャケットから解説を取り出すと,グループ結成のいきさつなどを夢中でぼくに説明した。

その表情はすごくあどけなく,時々垣間見える襟足の白さが,ぼくをどきっとさせた。

杏子さんは,どんどん近づいてきて,ぼくに体を押しつけていることも気づかないようだった。

その日,杏子さんは,アメリカのウエスト・コーストで活動しているグループの CM 曲をかけて,その良さを説明してくれた。

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余り遅くなると迷惑になると思い,十時過ぎに杏子さんの部屋を出た。

駅に向かっているぼくの頭の中には,まだ軽快なリズムが残っており,杏子さんがきかせてくれた世界の魅力に引き込まれそうな自分を感じていた。

翌週の休日の前の日も,杏子さんはぼくを自分の部屋に連れて行った。

杏子さんは,ぼくの音楽の先生なろうとしていた。

同じギターの音でも,地域によって音の違いがあることを教え,また,ギターの種類によっても違うらしかった。

杏子さんの説明をききながら曲を聴いていると,やがて,ぼくにも少しずつそれがわかってきた。

「ね,楽しいでしょ」

と,杏子さんはぼくの腕に頭をもたげながら言った。

「これはどうかしら」

と言って,杏子さんが選んだ曲は,スローなバラードだった。

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ぼくは,その曲に惑わされてしまったのかどうか分からないが,杏子さんの顔をこちらに向けると,唇を重ねていった。

歌詞の内容からして,あれは杏子さんの愛の告白だったのかも知れない。

「抱いて」

そう言うと,ぼくの手を,少しはだけたブラウスの中にもっていった。

どこではずしたのか,ブラジャーはつけておらず,ぼくの手は乳房に触れていた。

手の中にちょうどおさまった乳房をやさしく揉むと,杏子さんの息は荒くなっていき,ぼくにすがりついてきた。

「あっちで」

そう言うと,ぼくを寝室へ連れて行った。

そこには,カセットデッキが一台おいてあり,杏子さんがスイッチを入れると,再びバラードが流れてきた。

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杏子さんは,ぼくの胸に顔をうずめ,背中に腕を回すと,強く抱きしめてきた。

ぼくは,杏子さんの少し華奢な背中を撫で,その手を形のいいお尻に這わせた。

後ろから,杏子さんをまさぐると,そこは驚くほど濡れていた。

杏子さんの腕をほどき,仰向けにして,

「いいの」

と,訊くと,杏子さんは,いつもの渇いたはりある声ではなく,湿った声で,

「して」

と,直接的に言った。

その言葉は,ぼくの男を目覚めさせ,杏子さんの中に入っていった。

その最中も流れていたバラードが,二人の舞台を盛り上げていた。

それからも,杏子さんは,ぼくに色々な音楽をきかせ,その魅力を教えた。

ぼくもその魅力にとりつかれるようになり,杏子さんにアドバイスを受けながら,アルバムを揃えていった。

ある日,いつものように杏子さんの部屋で曲を聴いていると,

「これ行こう」

と,言って,チケットを見せた。

それは,Doobie Brothers(ドゥービーブラザーズ)の大阪公演のチケットだった。

初めて聴くライブの音は,アルバムにはない迫力があった。

つきあい始めてから二年が経ち,卒業の春を迎えようとしていた。

杏子さんの部屋で,

「杏子さん,実は」

と,言いかけると,

「わかってるわよ」

「こんな偏った女をもらったら,あなたは苦労するだけ」

「あたしも苦労するのは嫌だしね」

杏子さんは,努めて明るい声で言った。

そして,二人が好きだった曲を流し,

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「あなたは,あたしを受け入れてくれた初めての男になってくれた」

「それだけで,このあともあたしは生きていける。だから心配しないで」

そう言う杏子さんの目から涙があふれ出し,ぼくは杏子さんの顔を自分の胸に抱いた。

途端に,杏子さんは嗚咽を漏らし,しばらくぼくの胸で泣いていた。

ややあって,

「あたしが一番好きな曲をかけてあげるから,それを聴きながら行きなさい」

「うん」

玄関の方へ歩いて行くと,背後には出逢った頃によく聴いた曲が流れていた。

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ふと振り返ると,杏子さんは,こちらに背を向けて座っていた。

そこには,ぼくに戻ってくることを許さないような頑(かたく)なな雰囲気があった。

そして,それは,杏子さんがぼくに示してくれた最後の愛情だった。

 

杏子さん,ぼくは今でも,杏子さんのアドバイスで買ったアルバムをきいています。

杏子さんが教えた音楽は,ぼくに新しい世界を見せてくれました。

時折,杏子さんと聴いた曲が流れてくると,あの頃の二人の姿が走馬燈のように蘇ってきます。

杏子さん,ぼくに音楽の楽しさを教えてくれて本当にありがとう。

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