ぼくの胸にとびこんできたしゅう子

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しゅう子は,いつのまにかそばにいた。

大学で同級のしゅう子は,文学部で哲学を専攻している変わり種だった。

ぼくは何回か,

「なんでおまえは哲学なんか専攻したんだよ」

と,きいたことがある。

答えは決まって,

「そんなこと知らないわよ。ここしか受からなかったんだから」

と,言うのが常だった。

「ちょっとつきあうと,男ってそのことをきくのよ」

しゅう子は,NHKアナウンサーの廣瀬智美の若い頃に似ていて,薄笑いしたときの顔が妙にエロチックだったので,男達はそこに惹かれて言い寄ってくるが,勝ち気な物言いと理屈っぽさに負けて,退散するような女だった。

ぼくに対する言い方も,少しも遠慮がなく,時には命令口調になったりした。

しゅう子は,二年生の時,日本文学の研究会にふらっとやってきて,そのままいついたのだった。

しゅう子がここに来て間もなく一年になるが,兎に角,しゅう子はなんでも理詰めで話すので,男連中はひいてしまって,いつも最後まで議論していたのがぼくだった。

たまにみんなで酒を飲みに行っても,酔っ払うと,ぼくのそばにやってきて,わけのわからないことを言うものだから,

「おまえは,おれに何か文句があるのか」

「文句なんてないわ。ただあんたを見てると腹たつの」

「そんなことおれはしらないよ」

もうこうなったら,堂々巡りで,まわりが呆れてしまい,二人が放っておかれたこともあった。

しゅう子は,後期が始まった頃,ぼくのアパートに突然やって来て,

「あしたからここで寝る」

と,宣言したのだった。

それにはぼくの同意は関係なかった。

「なんでだよ」

「だって,この前のコンパで,あたしに来てもいいって言ったじゃない」

「そんなこと言うわけがないじゃないか」

「あんたは,みんなの前で,おれはしゅう子と暮らすって言ったのよ」

「うそだと思うんだったら,誰かにきいたらどう」

記憶が飛んでしまっていたのかどうかわからないが,全然記憶になかった。

「そんなことできないだろ」

「あんたは,女の気持ちを引っぱっておいて,いまさら尻込みするの」

「そういうわけじゃないけど」

「じゃ,どういうわけ」

「そこはお互いの了解というものがいるだろ」

「あんたがああ言ったから,あたしは来てやったのよ」

「ちょっとまて。おれはおまえに頼んだ覚えはない」

「そんなことどうでもいいわ。あしたくるから」

しゅう子は,立ち上がると,ドアをバタンと閉めて出て行った。

ぼくは,わけがわからないまま一夜を過ごした。

まわりの連中にきくと,確かにそう言ったらしい。

ただし,それは,お互いに酔っ払ったあげく,しゅう子と散々やり合って,引くに引けない状況で思わず口走ったものらしかった。

あくる日の夕方六時頃,しゅう子は紙袋を下げてやって来た。

「ほんとにきたのか」

「あたりまえでしょ」

しゅう子は部屋を見回すと,

「台所はどこ?」

「なにするんだ」

「ご飯作るに決まってるじゃない」

しゅう子は台所へ行って,もってきた紙袋を開けてご飯を作り始めた。

ぼくは根負けし始めた自分を感じながら,

「ほんとにいいのか」

「なにが」

「一緒に暮らすってこと」

「女の覚悟をなめちゃいかんよ」

「覚悟ってなんだ」

「あんたにはないもの」

しゅう子は,ちらっとこちらを見て,何とも言えない魅力的な笑顔をみせた。

炬燵の上に作ったものをおくと,

「さあ食べよう」

「あんたも食べなさい」

その口調は,母親がかわいい子供に下す命令に似ていた。

食事が終わると,さっさと片付けものを済ませ,ぼくの前に正座すると,改まって,

「ふつつか者ですが,よろしくお願いします」

と,三つ指をついて深々と頭を下げた。

ぼくは,しゅう子にこんな古風なところがあるのかと思ったが,

「これじゃ,まるでおれの女房みたいじゃないか」

「あたりまえよ。あんたと暮らすんだから」

「おれはまだ認めてないぞ」

「何言ってるの。あたしの料理食べたじゃない」

「あれはおまえの好意だと思ったから」

「あっそう。あたしの好意を受けとっといてまだそんなこと言うの」

「あたしはね,あんたの部屋のカギがかかっていたら黙って帰るつもりだった」

「それが開いてたということは,あたしを受け入れるという意志表示でしょ」

「そんなつもりじゃ」

「どんなつもりなの。言ってみなさい」

「あれは他のやつが来るかも知れないから」

「いつもはどうしてるのよ」

「閉めてある」

「ほれみなさい。あんたにもその気があったんじゃない」

さすが哲学を専攻しているだけあって,理屈では一歩も引いてくれなかった。

というよりも,売り言葉と買い言葉の応酬になっていた。

夜も更けてきたので,しゅう子は,

「お布団はどこにあるの?」

「そこの押し入れにある」

「おまえほんとにここで寝るのか」

「もちろん。あたしが三つ指ついたとき帰れって言わなかったじゃない」

「でも,やっぱりまずいだろ」

しゅう子は,押し入れから布団を出して,それを敷き,

「あたしは寝るけど,嫌だったらそこの畳の上で寝るかどこか寝るところを探したら」

「おい,ここはおれの部屋だぞ」

「それがどうしたの」

「だからおまえは自分の部屋に帰って」

「いやよ。あたしはここで寝る」

そう言うと,特段恥ずかしがる素振りもみせないで下着姿になり,

「おやすみ」

と,言って,背を向けて横になった。

「なぁ」

「なによ。うるさいわね」

ぼくもいい加減腹が立ってきて,

「いいんだな」

「いいって言ってるでしょ」

ぼくは仕方なくしゅう子の横に入った。

しばらく二人とも黙っていたが,しゅう子はこちらを向くと,

「あんたは,あたしの気持ちがわかってんの」

「どんな気持ちだよ」

「どこまで鈍感なの」

いきなりしゅう子はぼくの唇を奪った。

「これでわかった?」

「あんたは,ここまで何ひとつあたしを拒んでいないのよ」

「それはおまえが強引だったからじゃないか」

「ほんとに嫌だったら追い出せばいい」

「もう終電もないしそんなことは」

「そんな問題じゃない」

ぼくはとうとうしゅう子の粘りに負けてしまって,

「わかった。おまえはほんとはどうしたいんだ」

「まだ言わせるつもり」

と,言うなり,ぼくに抱きついてきた。

こいつは,本当は寂しい女なのかも知れない,とふと思い,このとき,ぼくはしゅう子を意識した。

しゅう子のやわらかい黒髪が目の前にあった。

それをなでると,一瞬ぴくっとした反応をみせたが,しゅう子は何も言わずされるままになっていた。

抱きついているしゅう子に,

「ほんとにいいのか」

と,言うと,黙って頷いた。

こいつは本当はとても不器用で,普通の女の子が踏むプロセスを理解できないのかも知れない。

だから,相手に直接飛び込むことで自分の気持ちを伝えようとしたのか。

もっと言えば,それしか方法を知らないのかもしれなかった。

しゅう子の背中に触れると,そこには女が息づいていた。

ぼくは疲れてしまっていつの間にか眠ってしまった。

「起きなさい」

眠い目を擦りながら辺りを見ると,しゅう子が炬燵のところに座っていた。

そこには,簡単な朝食がしつらえてあった。

「早くしないと授業に間に合わないわ」

慌てて服を着て,しゅう子の正面に座ると,

「いただきます」

「早く食べなさい」

しゅう子の作った朝食を食べながら,思わず,

「おいしい」

と,つぶやいている自分に気づいた。

その時しゅう子のみせた笑顔は,ぼくを吸い込みそうな明るさがあった。

それは,しゅう子が今まで誰にも見せたことのないものだった。

「行こう」

「早く準備して」

二人して部屋を出てカギをかけると,

「それかしなさい」

「どうするんだよ」

「わかってるくせに。合い鍵作るの」

何もかもがしゅう子のペースになっていた。

大学へ向かう道すがら,

「おまえの部屋はどうするんだ」

「今度の日曜日,二人で引っ越しする」

「おれが行くのか」

「他に誰がいるの」

「あたしこの先の教室で授業があるから」

そう言い捨てると,その方向へ歩いていった。

ぼくは,この急展開をどう咀嚼していいのかわからなかった。

ただ,しゅう子が飛び込んできたという現実だけがあった。

アパートに帰ると,しゅう子が先に帰ってきて夕食の準備をしていた。

「おかえり」

「うん」

仰向けに寝て天井を見上げながら,しゅう子を拒まなかった理由はなんだろうか,とぼんやり考えていた。

しゅう子を嫌いだから,仕掛けてくる論争に徹底抗戦しているわけではなかった。

元々,ぼくは,逃げずに真正面から向かってくる人間が好きだった。

それを一種のスポーツのように考えていて,勝敗にかかわらず,あとにおとづれる爽快感を求めていた。

しゅう子も同じだと言うつもりはない。

しゅう子は,男に負けたくないという感情が強いんじゃないかと思っていた。

「ご飯食べるよ」

「お茶碗とお箸買ってきた」

出されたおかずは,決して贅沢なものとは言えなかったが,いかにも手慣れた感じがした。

それは,普段の硬質な姿からは想像できないものだった。

こいつはできるだけ女を見せない生き方をしてきたのか。

やっと見せてもいいと思った相手がぼくなのか。

食事が終わって一段落すると,

「洗濯はどうしてる?」

「ベランダの洗濯機で適当にしてる」

「最近洗濯した?」

「してない」

「やっぱり」

指さした方向を見ると,綺麗に洗った下着やシャツが干されていた。

しゅう子には男の下着を洗うことに抵抗はないのだろうかと不思議な気がした。

よく見ると,部屋の中がどことなく片付いている。

おそらく,先に帰ってきて掃除したに違いなかった。

しゅう子は,ぼくの前で初めて女を見せているのかも知れない。

学内の同級生は,しゅう子のこんな姿を誰一人想像できないだろう。

日曜日,しゅう子のアパートに無理矢理連れて行かれ,引っ越し荷物を運び出した。

部屋はすっかりきれいに片付けられ,段ボール箱に入れてあった。

その光景は,しゅう子の用意周到さを示していた。

レンタカーに荷物を載せてぼくのアパートに運んだ。

「これで帰るところがなくなった」

「どういう意味だよ」

「なんでもない」

その夜は夕食を準備する時間がなかったので,近くの食堂に行った。

アパートに帰ると,

「持ってるお金を全部出しなさい」

「何するつもり」

「いいから早く」

ぼくはしぶしぶ所持金を出した。

すると,しゅう子は二人のお金を数え,同額を脇にどけて,残りを返して寄越した。

「これから毎月二人で同額を出し合ってそれを一ヶ月の所帯費にするの」

「家賃はあたしも半分出すから」

「残りはあんたの小遣いにしなさい」

「ちょっとまってくれ」

「文句言わないの。最初に決めておかないとお互いに気分よくないでしょ」

「そうりゃそうだけど」

「おまえ本気なのか」

「まだ言ってる」

コーナーの角に追い詰められて,パンチを浴びせられているようなものだった。

どんどん反撃の余地を失いつつあった。

「あたし明日の予習するから」

炬燵に専門書を広げて勉強し始めた。

ぼくも仕方ないから予習をするしかなかった。

しゅう子はおもいだしたように顔を上げると,

「お風呂はどうしてる?」

「五分ほど歩いたところに銭湯がある」

「まだ開いてるかしら」

「ぎりぎりってとこかな」

「じゃ,今すぐ行こう」

外に出ると,しゅう子はぼくの腕に自分をからませてきた。

こんなことをする女に見えなかったので,ぼくの方が恥ずかしくなってきた。

「十五分後にここで待ってて」

と,言うと,中へ入っていった。

先に出て待っていると,

「ごめん,遅くなって」

「帰りましょ」

と,嬉しそうに言ってぼくの手を取った。

しゅう子の頬はほんのり赤く,肌がつやつやと光っていた。

部屋に帰ってしゅう子を見ると,いつもの尖った雰囲気は消えて,完全に女の姿になっていた。

「あたしに何かついてる?」

「なにも」

「だったらじろじろ見ないの」

しゅう子は布団を敷くと,

「もう寝ましょう」

「明日は一限目から授業あるから」

そう言うと,ぼくの前でパジャマに着替えた。

「恥ずかしくないのか」

「どうして」

「おれは男だぞ」

「それが」

「男の前でそんなことしないだろ」

「いけない?」

「いけないってわけじゃないけど」

「だったらいいじゃない」

さっさと布団に入ると,背中を見せて,

「おやすみ。寝る時は電気消してね」

「おれに命令するのか」

「あんたが立ってるから言っただけ」

仕方なく電気を消してしゅう子の横にもぐり込んだ。

しゅう子はもう軽い寝息をたてていた。

一体こいつは何者なんだ。

遠慮も何もあったもんじゃない。

 

「起きなさい」

しゅう子は出かける用意をすませていた。

「先に行くから」

「おかずは炬燵の上」

「ご飯は炊飯器に炊いてある」

「カギはそこ」

と,言って炬燵を指さした。

しゅう子の作った朝ご飯を食べながら混乱した頭を整理しようとした。

あいつはどういうつもりなんだろう。

いきなりぼくの部屋にやって来て,ここで寝る,と一方的に言ったかと思えば,平気で裸になってぼくの布団に寝ている。

普通はこんなことを誰もしないだろう。

そんなことはしゅう子も分かっているはずだ。

しかし,敢えてそこまでする理由はどこにある?

いくら考えても答えなど出るわけがなかった。

しゅう子とは専攻が違ったので,学内で殆ど顔を合わせることはなかった。

逢うのは毎週水曜日の研究会の時だけだった。

二人で大学に行くときも,しゅう子は先に歩いて,ぼくをほったらかしだった。

ぼくもべたべたするのは嫌いだったから,何とも思っていなかった。

何や彼やといっても,もうすぐ一ヶ月が経とうとしていた。

少しずつ二人のリズムが出来上がってきて,最初の時ほど口げんかはしなくなっていた。

しゅう子は荷物を解き,部屋は女の匂いがした。

 

ある日,授業の合間に中庭のベンチでくつろいでいると,

「せんぱい」

うしろから声が聞こえた。

「なんだおまえか」

研究会の後輩だった。

「しゅう子先輩とつきあってるでしょ」

「いきなりなんだよ」

「しらばっくれてもわかってるんですよ」

「どうしてわかる」

「二人の雰囲気が以前と違うんです」

「どう」

「そこだけ別の空気が流れている感じがするんです」

「それに,あれほどやりあっていたのがなくなってきたし」

「わたし,高校でしゅう子先輩の後輩だったからよく知ってるんです」

「先輩は,ああ見えて女の子にはすごく優しかったんですよ」

ぼくには想像できないことだった。

「しかし,いつも男には喧嘩売ってるじゃないか」

「あれは癖みたいなものかな」

「高校でもいつも男子とやり合ってましたから」

「ふうん」

「先輩のお家は母子家庭で,弟さんが一人いて,お母さんは看護婦(当時(80's)はそれが正式名称だった)で,夜勤もあるから,先輩が何時もご飯作って面倒みていたんです」

「どうしておまえがそんなことまで知ってるんだ」

「家が近くだったんです」

それで,色んな料理を出してくれたり,何くれと面倒を見てくれたのか。

気がつくと,いつもしゅう子が先にやってあった。

あれから,何も言わずに掃除・洗濯はしゅう子がいつもやっていた。

後輩の一言はしゅう子の正体を明らかにしていた。

「もう一度きく」

「どうしておまえはわかるんだ」

「しゅう子先輩,最近すごく綺麗なんですよ」

「それに前より明るいし」

「高校の時は,どこかに影があって,いまほど明るくなかったんです」

「おまけに先輩はいつもあんな調子だから,男の人はあまり寄ってこないんです」

「だろうな」

「先輩だけですよ。しゅう子先輩から逃げなかったのは」

「おれは,あいつがいつもつっかかってくるから応戦してだけだ」

後輩はくすっと笑って,

「先輩ってほんとに女心を知らないんですね」

「それはどういう意味だ」

「それはしゅう子先輩にきいて下さい」

「授業があるので失礼します」

と,言って後輩は校舎の方へ駆けて行った。

 

ぼくは後輩の言葉を反芻しながら考えを巡らしていた。

しゅう子は,母親が仕事に追われているから,家の中のことを何もかもやってきたのだろう。

そして,人生で最初にであう男である父親の記憶が余りないのかも知れない。

父親を求めてもいない寂しさが,やがて男に対する不信感にかわっていったのか。

それが,しゅう子には潜在的なコンプレックスになって,それを跳ね返すために男に対して攻撃的な態度をとってしまうのか。

しゅう子は,相手に何かを秘めてものを言っているのだが,相手にはそれが伝わらないために,去られてしまう経験を繰り返してきたんじゃないか。

しかし,おまえは男を攻撃することで,同時に自分も傷つけているということをわかっているのか。

おまえは,今,傷だらけなのか。

ぼくだけがおまえにぶつかってくることに何かを感じたのか。

おまえは,ぼくに何を言っても自分が傷つかないことに気がついたのか。

ぼくはしゅう子がころがり込んで来るまでは,そんなことを考えたことがなかった。

しかし,今は何となくわかる様な気がする。

いつも硬い部分だけをまわりに見せて自己を防衛してきたのか。

しゅう子は,自分のやわらかい部分は弱点と考えてきたに違いない。

だけど,しゅう子は,ぼくにはそれを見せてもいいと思ったのか。

それを見せる条件として,ぼくがどこにも逃げないようにするために自分から飛び込んできたのか。

そして,その証としてぼくの前で下着姿にまでなったのか。

誰かを愛するのは,本人が自覚しているか否かは別にして,相手に賭けているところがある。

その賭け率に比例して,破れた時の傷つき方は大きくなる。

しゅう子はそこまでしてぼくに賭けたのか。

自分を投げ出すというのはそういうことなのか。

ただ,ぼくはおまえにとってそれに値するのかどうかはわからない。

 

その日はバイトだったので,しゅう子には遅くなることを言ってあった。

部屋に戻ると,しゅう子は夕食に手をつけないで待っていた。

「先に食べなかったのか」

「一人じゃおいしくない」

「だけど」

「いいの。あたしが勝手に待ってるんだから」

「おかず冷めてしまったけど早く食べよう」

「うん」

ぼくは後輩に聞いたことは言わなかった。

いや,むしろ言うべきではないと思った。

一つ間違えば,こいつの秘密を曝いてしまうことになる。

しゅう子はノートを取り出すと,

「今月の収支を報告するわ」

「なんだよそれ」

「二人の大事なお金を預かってるんだから報告するのは当たり前でしょ」

「それ家計簿じゃないか」

「そう」

「そんなものいつからつけてたんだよ」

「始めから」

家計簿をつけていたなんてつゆ知らなかった。

「今月は何とか黒字」

「でもぎりぎりだから,来月から三千円アップね」

「わかった?」

うん,と言うしかなかった。

こいつは本気で家計をやりくりしようとしているのか。

「ところで,あんたはお小遣い足りてるの」

「どうして」

「何となく」

「もし足りなくなったらあたしが貸してあげる」

「利息はある時払いの催促なしでいいわ」

もはや主導権はぼくにはなかった。

どこまでいってもしゅう子には追いつけない。

こういうところが,母親の代わりとしてやってきたことの証左になっているのか。

「生活」というものを完全に理解している。

そして,しゅう子はぼくにどこかへ連れて行けとねだることはなかった。

そんな浮いたことは何の意味も持たないのだろう。

そういうところは,親の財布をあてにして遊んでいる学生とは違っていた。

年末ぎりぎりまでバイトをしてから実家に帰った。

しゅう子は一足先に帰っていた。

そういえば,しゅう子は実家の母親に何と言っているのだろう。

しゅう子は何も言わないしぼくもきかなかった。

年明けに戻る日は打ち合わせしてあった。

夕方に戻ると,炬燵のうえにはおせち料理がおかれていた。

「実家で余ったのを持ってきた」

「それはいいけど」

「なによ」

「おまえどう言って持ってきたんだ」

「何とでも言えるわ」

「そんなことより早く食べよう。お雑煮も作ってある」

準備が整うと,しゅう子は正座して,

「あけましておめでとうございます」

「今年もよろしくお願いします」

と,言って三つ指をついて頭を下げた。

「こちらこそ」

女にかしずかれることなんてなかったから,ぼくは恥ずかしくなってしまった。

「さあ食べよう」

いつものしゅう子に戻っていた。

「今年の目標は就職ね」

「そうだな」

「あんたはどうするつもり」

「地元に帰って県職をうけようと考えてる」

「あたしもそうしようかな」

「実家に帰らなくてもいいのか」

「親はさっさと嫁に行けと言ってる」

食事がすむと,しゅう子が,

「お風呂に行こう」

「外は寒いよ」

「いい」

しゅう子は支度をして先に出たので,ぼくは後を追った。

帰る時,ぼくの腕に自分の体を預けてきたので,ぼくはしゅう子の肩に手をおいて引き寄せた。

電気を消して横になっていると,背を向けたまま,いつにない思いつめた声で,

「あたしを欲しくないの」

と,きいた。

「欲しくないと言ったらうそになる」

「だったら何故そう言わないの」

「言う機会が見つからなかった」

「じゃ,いま言いなさいよ」

その声はかすれていたが,何かを覚悟する真剣さがあった。

「欲しい」

「あげる」

しゅう子のパジャマのボタンを外していった。

しゅう子の肌からは風呂上がりのいい匂いがした。

触れた乳房は外からみた感じとは違って随分大きく,つきたてのお餅のように柔らかだった。

パジャマの上下を脱がせ,ぼくも裸になった。

ぼくの胸に顔をうずめたしゅう子はどこか堅苦しい雰囲気があった。

背中をゆっくり掌でなでながらお尻に持っていき,しゅう子の最後のものを脱がせた。

仰向けにして乳首を吸うと,声が喘ぎ始めていた。

そしてしゅう子自身に手を伸ばした時,しゅう子の体が硬くなったような気がした。

それにかまわずしゅう子に触れると,ぼくの首の後ろに回した両手がぼくを引き寄せた。

しゅう子の中に指を入れようとした時,これは,と思った。

こいつは初めてじゃないか。

しゅう子が濡れてきたのを確かめると,上になり,しゅう子の中にゆっくりと中に入っていった。

入った時一瞬眉をひそめた顔になったが,すぐに弛緩したような顔つきに変わった。

しばらくしゅう子のなかでゆっくり動いた後,しゅう子を抱きしめた。

しゅう子は強く返してきた。

ぼくはしゅう子をひき返せないところまで連れてきて,ぼく自身もひき返してはならないところまできたことを自覚した。

 

「いかなくていいの」

「どうして」

「男っていかないと満足できないんでしょ」

「おまえなぁ,おれがロマンチックな気分に浸ってるのに何を言うんだよ」

「だって友達がそう言ってた」

「そんなことをしたらできちゃうじゃないか」

「あれが終わった直後はできないんだって」

「おまえにはムードというものないのか」

ぼくはもう笑うしかなかった。

「おまえ初めてだったろ」

「そうよ」

「初めての女がそんなこと言うか」

「いけない?」

「じゃ,あらためて」

まだ濡れているのを確認すると,自分をしゅう子の中に沈めて動いた。

その動きに呼応するようにしゅう子の呼吸は荒くなり,ぼくを強く抱きしめてきた。

それがぼくを締めつけるような動きを始めた時,ぼくは我慢できなくなりしゅう子の中でいった。

そしてしゅう子の汗ばんだ体を抱きしめた。

「うれしい」

その一言は,自分が求め続けてきたことに対する達成感とそれが間違っていなかったという確信だった。

このとき,しゅう子は,ぼくが自分のものになったということを思ったに違いない。

ぼくも,しゅう子が言った「女の覚悟」がわかったような気がした。

幸いしゅう子は妊娠しなかった。

 

しゅう子との暮らしが長くなるにつれてわかってきたのは,家庭といえば大げさになるが,それを大事にしようという思いだった。

しゅう子は,いつも自分のことを後回しにし,ぼくのことを優先させた。

ある晩,ぼくはしゅう子にたずねたことがある。

「おまえはどうしてそこまでしてくれるんだ?」

「どうしてって?」

「家の中のことを全部やってるじゃないか」

「おれはおまえにかしずかれて,ふんぞりかえっているようなもんだ」

「いいのよ。わたしにはそれが夢だったんだから」

しゅう子は,研究会の後輩が言ったことをぽつりぽつりと話し始めた。

「私の家は母子家庭で,父親はわたしが小学校四年生のときにいなくなった」

「幸い母は看護婦だったから,食べることには余り困らなかった」

「そのかわり,家のことはわたしが全てしなきゃいけなくなって,友達とも遊ぶ時間が殆どなかった」

「わたしは,友達が遊んでいる姿を見るたびいなくなった父を恨んだ」

「父さえいてくれたら,母は家を守って,わたしは子供らしいことができたのにって」

しゅう子の目には涙が光っていた。

「いつのまにかわたしをこんな目に遭わせた男が憎くなってきて,絶対負けないと思うようになった」

「そうやって今まで自分を励ましてきたのよ」

「もう男とは一生つきあうことはないと思ってもいた」

「そこにあなたがあらわれて,わたしの攻撃的な言動にもひるむことなく受け止めてくれた」

「おれはそんなつもりじゃなく,ただおまえに負けたくなかったから」

「あなたはそうでしょうけど,わたしにはそれがとても嬉しかった」

「そして,あなたという存在が,わたしにとってとても気持ちよかった」

「いくらぶつけても,以前のように自己嫌悪に陥ることもなくなった」

「わたしに対するあなたの態度はずっと変わることがなかった」

「わたしは,あなたに自分の気持ちを伝えたかったけれど,この関係が壊れてしまうことが恐くて言い出せなかった」

「そんな時,酔っ払って思わずあなたが言った言葉に,わたしは賭けることにしたの」

「だけど,悠長な物言いでは,絶対うまくいかないから,あなたのところに飛び込むしかないと考えた」

しゅう子は,ぼくの膝に頭をのせてきた。

ぼくは,やわらかな髪をなでながら続きをきいた。

「でも,本当は,あなたが怒ってわたしを追い出さないかと,ものすごくこわかった」

「そして,この部屋で初めてあなたと眠ったとき,わたしはこの状況を絶対逃がすまいと誓った」

「でも,わたしには恋愛の経験がないから,ほんとうはどうしていいかわからなかった」

「そこで考えたのは,自分が小さい頃からやってきたことで,あなたに尽くすことだった」

「だから三つ指ついたのか」

「そうよ。わたしはあなたの奥さんになりたいという意思表示だった」

「けれど,あなたはわたしを女として抱こうとしなかったから不安だった」

「それは,単に言い出すきっかけがなかっただけで,おまえを欲しいと思わなかったんじゃない」

「わかってる。だけど,わたしはまだあなたに全てを捧げていないという不安があった」

「そうだったのか」

「あなたがわたしを抱いてくれたとき,わたしはこの人を離したくないという気持ちが強くなった」

「だから,私のできることを一所懸命やることにしたの」

しゅう子は,やっと自分の思いの丈を打ち明けられた安心感か,声を出して泣いていた。

ぼくは,しゅう子の気持ちがこれほど強いものだということがわかり,自分の気持ちもかたまっていく感じがした。

しゅう子は,涙で濡れた目でぼくを見上げ,

「一つおねがいがあるの」

「なに?」

「就職する前にあなたと二人でどこかへ行きたい」

「どこがいい」

「そうね。松江から出雲大社がいい」

「わかった」

ぼくは,しゅう子がそこに込める思いを理解した。

 

秋に入って,二人に採用通知が来た。

翌年の正月,ぼくはしゅう子の母親のところへ挨拶に行った。

卒業前に,ぼくたちは,しゅう子が希望したところへ行った。

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しゅう子,ぼくはおまえが賭けてよかったと思える男になるように努力するよ。

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