北の街で【掌の小説】

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私はあの頃,毎日下宿で本を読むという生活を続けていた。
人生を安易に決定して良いのかという問題が私を大きく支配しており,その答えを本の中に求めて,自分を没入させていた。
外へ一歩出ると,冬の暖かい陽射しが私を包んでくれるというのに。

そういう生活が二カ月程続いただろうか。
私はこの状態に甘んじる事にはがゆさを感じ,なけなしの金を持ち,北へ旅立ったのである。
暫くこの問題から逃れる為に・・・

京都から夜行に乗り,青森に着いたのは翌日の昼近くだった。
北国は早くも冬の様相を呈し,私を受けつけてくれそうになかったが,青森で夜まで過し,青函連絡船に乗り込んだのは,大分夜が更けてからだった。

函館に着いた時にはもう夜があけようとしており,その銀世界に私は改めて驚かされた。
東北の暗いイメージは北海道にはなかった。
一面に広がる雪景色,眠ったように静まり帰った大地に,心が次第に澄みきって行くのが感じられた。

札幌に着いた時,北国にもこのように近代化された街があるのかと,目を見張ったくらいである。
私は北十六条の北大の近くに宿をとった。
札幌は余り雪が深くなく,除雪車と街の暖かさによって融けてしまうのだろうと思われた。

街を散策しながら,ここに住んでいる人は幸せだ,この広い大地に住める人は幸せだ,と私は妬ましくなった。
駅前のバスターミナルで初老の人との会話に,「しばれる」,「内地」という言葉を耳にした時,私は,やっとここが北海道であることが実感出来た。

それまで平然とした広さに圧倒されていたのだ。
その人に礼を述べ,大通公園のテレビ塔にある喫茶店へ「しばれる」中を急いだ。
窓際に席を取り,遠くに果てしなく広がる銀色の大地を眺めていると,ふと遠い想い出が甦る。

あれは丁度一年前の事だった。
麻衣子は研究室の後輩だった。
その頃私は室長をしており,謂わば指導的立場にいたが,何ひとつ充分な働きはしていなかった。
そんな私のもどかしさを彼女は気づいていたのか,ある日研究室で二人きりになった時,
「南条さん,何か悩んでいらっしゃるようだわ。どうかしたんですか」
「いや何でもない。考え事をしていただけだよ。それよりも,近くの喫茶店でお茶でも飲もうじゃないか。こんな寒い日は厭だよ。気分が滅入ってね」
「本当にお茶だけですの」
とからかうように言った後,
「いえ,今のは冗談です。お忘れになって」
今にして思えば,麻衣子のあの言葉が発端となって,私の心に火を点けたのだろう。
近くのパピイで取り留めのない話をして,彼女と別れたのだった。

あれは,それまで猛り狂っていた冬が,束の間の優しさを見せた土曜日の事だった。
私はバイトに明け暮れていたが,久しぶりにバイトが無く,日曜日をどう過ごそうかと迷っていた時,彼女の事が思い浮かんだのだった。
その夜電話をかけ,京都に映画を観に行く約束をしたのである。

待ち合わせ場所はH駅だった。そこはK電鉄株式会社の支線で電車は二両しか走ってなく,休日は大変込むのである。
私は成人式の為にバイトで買った黒のジャケットを着て待っていた。十分程遅れて彼女はやって来た。
「ごめんなさい」
素直に謝ると,
「今朝は早く起きて洗濯をしていたの。それで遅れてしまったの」
「ああ」
私はすっかりのぼせていた。

大学に入るまで,女の子と余り話したことがなく,入学して漸く付き合いに慣れたものの,二人きりで,何処かへ行くなど初めてだったのである。
要するに私は女の子が苦手だったのだ。

私達は,京都行きの電車に乗り,向い合ってお互いに後ろから押されながら立っていた。
私は彼女の顔を見るのも恥かしく,長い髪ばかり見ていたような気がする。
念入りに櫛を入れられた髪はつやつやと光っていい香りがした。

京都に着くまでは二人とも一言も話さず,私は自分が田舎出身であり,京都には修学旅行で来ただけで全くといってよい程知らないので,彼女を誘ったことを半ば後悔していた。
京都へ着いても,私にはどうしてよいか解らず,黙って人波の中を歩いたが,麻衣子は何も言わずついて来てくれた。
女性をリードする術を知らなかったので,彼女の従順さがとても有り難たかった。
尤も彼女の方では,女の扱い方も知らないのかしら,と心の中で笑っていたかも知れないが。

どうにかしなければと思い,通り掛かった喫茶店に入ろうと言って,コーヒーを頼んだ。そして,
「今どんな映画をやっているのかなぁ」
と,独り言のように呟くと,
「あれ,南条さん知らないんですか。私はもうとっくに調べていてくれると思ってましたのに」
「この一年間映画の類はほとんど観ていないんだよ。強いて言えば,二週間前友達のKに誘われ行ったポ・・・」
私は言いかけて止めてしまった。
「判ってます。ポルノ映画でしょう。男の人は何故あんなもの見たがるのでしょう。女の私には全く理解できないわ」

十分くらいそんな話をしてそこを出た。また,あてもなく歩いてから,本屋の横の映画館に入った。
確かマイウェイを上映していた様に思う。

私は映画もそぞろで,自分を落ち着かせるのに精一杯だった。
後で感想を訊ねられた時,満足に答えられない有様だったのだから。

こうして私達の最初の逢瀬は終った。
帰宅する頃には,二人は次第に打ち溶け,私達の間に張っていた氷が融け始めるのを感じていた。

「どうぞ」
ウエイトレスがコーヒーを運んで来たのだった。
夢から醒めたようにうつろなまなざしで彼女を見つめると,笑って,
「遠くを見ていらしたようですけど」
「ちょっと考え事をしていただけです。それにしても,眼前に迫ってくる限りない白さを眺めていると,自分の汚れていた心が何かしら洗い流されるような気がします」
「そうですか。でも私達にはただの雪に過ぎないですわ。生活していく者と,通り過ぎる人との違いは随分あるように感じます」
「そうでしょうしょうね。どうもありがとう。ひきとめてすみませんでした」
「いいえ」
軽くこちらに会釈すると彼女は離れて行った。
その言葉使いにはほとんど方言は交じっていなかった。

冬が厳しさと束の間の安息とを教えてくれるならば,今は安息の時であった。
冬がまばゆいばかりに暖かい陽射しに輝いている。
私は再び遠い世界に心を投じた。

あれから私達は逢瀬を重ねた。それも私のアルバイトの為に屡々遅くなることもあったが,私の心は互いに近づきつつあることを感じていた。
それは寒さが和らいでいくのと呼応していた。
後期試験が終了し,大学は春の休暇に入った。
構内はしんと静まり帰ってまわりの樹々だけが春の気配を巧みに感じ取って今にも芽を吹き出さんとしていた。

私は家庭教師の他に,この休暇中友人からもらったアルバイトをやるため,故郷には戻らなかった。
その間私達は,想い出のページを増やしていった。
そして,円山公園へ行った帰り彼女と初めてのキスをしたが,それは全くぎこちなく,彼女にリードされていたような気がする。

私はアルバイトが少し早く終わったので,帰郷することにした。
家には一通の手紙が届いていた。
それは,私が大学入学と同時に忘れなければならない名前であった。

史子は,高校時代に雑誌で知り,文通を始めた女性だった。
下宿生活をしていた私にとって,彼女は精神的な支えになっていた。
又,大学を落ちて浪人生活を送っている時には,その励ましは何物にも替え難かった。

私は,彼女の住む地の大学へ行こうとしたが叶わなかった。
その時私は史子との可能性が無くなってしまったことを悟った。
あれから一年が過ぎ,忘れかけていたことが不意に甦える。

「史子」と記されたそれを開封することを随分ためらった。
彼女の生活は,もう私との接点を見出すことのない所へいってしまっている筈であった。
時間があれば,一度こちらの方に来るように記してあった。

これは大いなる誘惑であり,同時に私の心に再び火を点けてしまうことを史子は知っているのだろうか。
やがて休暇が終り,大学は新入生を迎えて活気づこうとしていた。
私達は相変らず逢っていたが,私は史子のことを考えることが多くなった。

私は,流されるままに麻衣子と逢い,肉体交渉を持ち,その時も私は醒めた目で彼女の柔らかな体を見つめていた。
麻衣子が,一生懸命愛撫に耐えようとしている姿を見る度に可哀そうになったが,私にはこの状態を抜け出す術は持ち得なかった。
私は,彼女の心だけでなく,肉体さえも自らの性の欲望を押さえ切れずに弄んでいたのである。

私の苦しみを鋭く感じ取った麻衣子は,もう私の前には居ず,私に夢中になり,私との交渉を通じて快楽を追い求めようとする姿が其処にあるだけであった。
私達は,精神的には河を隔てた彼岸と此岸にありながら,肉体は河の中で泳いでいたのである。
それは,もう若者のする恋愛ではなく,狡猾な大人のすることであった。

五月の連休明けの土曜日の夜,私は寮の仲間と麻雀に打ち興じていた時,電話があった。
史子からである。
「もしもし南条です。お久し振り」
「本当にお久し振り。私ね,この連休に来られると思っていたのに」
「バイトがあって行けなかったんだよ。それに,もう半分以上諦めてたこともあるしね」
「ごめんなさい。ところで,何度も放送で呼出して下さっていたのに何をしていたの」
「いやね,麻雀をしていたんだ」
「それなら私もやったことがあるわ,ほんの少しだけど」
「この夏休みにそっちへ行こうと考えてるんだけど,逢ってもらえますか」
「予定表でも送ってもらえると有り難いんだけど・・・楽しみに待ってます。お友達が待ってるでしょうから,早く行ってあげないと悪いわ。じゃあこれで切ります。さようなら」
「お元気で」

雲間から一筋の光が差すように,私の上に幸運の光が差し始めた思いに囚われ,この泥沼から抜け出せるという期待で心は踊った。
しかし,私は何時から自分を狡猾に振る舞わせる術を覚えたのだろうか。
麻衣子には別れを告げなかった。
そして,彼女の肉体を貪っていた,まるで飢えた狼のように。

暖かい風が熱風に変わり,体に汗を生じさせ始める。
春がその足音を次第に遠ざけ,夏がやってきた。
私は史子との約束通り,夏休みに入って十日くらいしてから,北へ向かって出発した。

先輩が最後の想い出に北海道へ行くと言うので,その車に便乗させてもらうことにしたのである。
私は免許証を所持していないので,Uさんが一人で運転することになった。
国道八号線を経て七号線に入り青森へ行く予定だった。

二日間で約三十時間くらい走っただろうか。
二日目は,疲労のため半日近く眠っており,目が醒めた時には,車はもう青函連絡船乗り場に着いていた。
私達の船は深夜〇時十分に出発した。

函館に着いた時には,太陽が地平線から顔を出そうとしており,休む間もなく洞爺湖に向けて走り出し,到着したのは昼近くのことであった。
湖岸でテントを張り,四時間ほど仮眠してから支笏湖へ向かった。
支笏湖を一周してから,苫小牧のアイヌ部落でショーを見物し,車は一路札幌へ急いだ。

未知のものは期待と不安で迎えられるように,私の心は昂揚していた。
放浪の旅であるから,宿のあてなどある筈もなかったので,北大の寮に泊めてもらうことにしたものの,札幌の市内に入ると,何処にいるのかさえ分からなくなり,寮を探すのに一時間ほど費やした。

寮でぐったりとして横になると,疲労の波が襲ってきた。
翌日,時計台や大通り公園を見て歩いた。
札幌は,計画都市だから区画が明確で,私達にも街の構造がじき理解できた。

先輩のUさんは,積丹半島に向けて出発し,私は史子と逢うために札幌に残った。
史子は市内の商社に勤めているとのことだった。
連絡すると,折しも会社の決算日と重なっており,夜七時くらいしか逢えないということであった。

私は仕方なく街を散策することに決め,地下鉄に乗って中島公園に行ったり,薄野などを歩いたりして時間を潰した。
約束の場所は駅の南出口だった。
私は,夏の遅い夕暮れが始まろうとする頃,そこまで歩き,退社する人々の群れを,退屈凌ぎに待合室の椅子に坐って眺めていたが,見知らぬ街で一人きりでいることは,孤独を感じさせずにはおかなかった。

しばらくして,明らかに私の方へ向かってくると思われる女性の姿があった。
ぼんやりとした姿が徐々に大きくなり,目の前で立ち止まり,私を見つめる。

史子であった。
以前に写真を交換し合っていたから顔は分かる筈であったが,薄く化粧をし,淡いピンクのスーツ姿の彼女は,別の人物のような印象を与えた。
女性がこのように鮮やかに変化する様を,私は一種驚愕の目で見ていた。

「南条さん,ですか」
と,確かめるように言って,私の隣に座った。
私は,麻衣子との最初の逢瀬がそうであったように,すっかりのぼせてしまった。
「お食事はまだですの。まだでしたら,すぐそこの地下街の店でも行きません」
「いいですね,案内して下さい。そこへはまだ行っていないんです」

彼女は先に立ってどんどん歩き,私は自分が意志の持たぬ物体で,それを彼女が引き摺って歩いているように思われた。
私達は和風食堂に入り,私はてんぷら定食を,彼女はお茶漬を注文した。

真正面に見ると,高等学校の時の素顔は消失してしまい,少女から女へと転身し始めている様子が眩しかった。
今が最も美しいのだろう。
北国の女性は肌が白い。
それは,札幌という街を半日歩いていた時に感じていたことであった。
彼女も例外に洩れず透き通った肌であった。

食事をすませてから,同じ地下街にある喫茶店で珈琲を飲んだ。
私達は,四年間手紙の上で会話していながら,実際に逢ってみると何も話せなかった。
しかし,史子は沈黙を破るように,
「ここへ来るまでどこを回って来られたんですか」
「洞爺と支笏湖,それから苫小牧のアイヌ部落に行ってきました」
「北海道は広いでしょう。道路なんか内地と比べものにならないものね」
「ほんとに驚きました」

時は,私が落ち着く間もなく過ぎてゆく。
私達は札幌駅に向かって歩いていた。
「どうも駄目だなあ」
「何が」
「どういう訳かあがってしまった感じで,自分でないような気がする」
「そう,私もそろそろ帰らなくちゃ。また,手紙でお話しましょう」
「ええ」
「それじゃ,お元気で。さようなら」

改札口へ歩いてゆく後ろ姿を見送っていると,何かやりきれぬ気持ちで一杯になった。
胸に秘めた思いを吐き出せなかった自分に腹が立ち,情けなくなった。

四年間の文通という機織機が紡いだ糸は,今静かに切れようとしていた。
私は,言い知れぬ寂寥と空しさを感じ,酒でも飲みたい気分だったが,金銭の余裕がなく,それすらも出来なかった。

Uさんは十時近くになって寮に戻ってきた。
「どうだった」
「ええ,まあ」
「その様子だと,結果はあまりよくないらしいな」
「もう聞かないで下さいよ。終わったことなんだから」
もう終わったのだった。
私は,この苦い記憶を忘れようと努めることにした。

私達はおよそ二週間を費やして,北海道のほぼ全域を回った。
だがその間にも,私の心には史子の姿が消えず,それどころかますます大きくなっていくようであった。

考えれば考えるほどわからなくなる。
そして,内地へ帰ってきた時も,下宿でも,一人の女を弄んでいる自分と,何も話せずに別れてきた自分に責められ続けてきた。
けれども,結論は出さねばならない。また,哀しみが訪れるのは早い方がよい。遅くなるほど深くなる。

私は麻衣子を,何度と落ち合う場所になっていたS川畔の喫茶店に呼び出した。
私の様子を見て,以前の鋭い彼女に戻ったのだろうか,心を見透かすように,
「私のことをどう思っているのですか」
答えなかった。

重苦しい沈黙が続く。
その重さに耐え切れなくなったのか,うつむき加減の顔から,一筋の涙が頬を伝って落ちた。
とうとうここまで来てしまった。後は二人とも別々の道を歩むだけだ。

そのような気持ちになって,
「僕は北海道へ行って,文通している女の子に逢ったけれども,彼女は既に遠く離れたところへ行ってしまった気がした。二人はもう離れ離れになる時期に来ていたんだ。それで,僕は取り留めのない話をしただけで別れてしまった」

麻衣子は,一度も顔を上げず私の言葉を待っていた。
「でもその時は納得がいかなくて,北海道をめぐっている間も,そのことばかり考えていた。そうするうちに,君に対する気持ちが薄らいでいることがわかったんだよ。僕は君に彼女の面影を重ねていただけだったんだ。このままでは,君をおもちゃにしてしまう気がする」

肩をゆすって泣いている彼女を見ていると,どうすることも出来ない,いや,どうしてやることも出来ない自分が情けなくなった。
私は,もうこれですべて終わってしまったんだと思い,きらきらと光る川面に目を転じていると,涙が溢れてきた。

そんな沈黙を破るように,麻衣子は不意に出ていった。

私はあの時,人の心を軽々しく扱うことの怖さを初めて知ったのだった。
また,寂しさからくる恋が,結局はあの様な結末になることは,おのずからわかっていたことかも知れなかった。

ふと気がつくと,街には白い粉雪が舞い始めていた。

(あとがき)
大学時代の最も多感な時に,筆の進むままに書いたものです。
内容については,一部自分の経験が含まれています。
今改めて読み返してみると,こんな「かっこつけた」ものをよく書いたものだと恥ずかしくなります。
しかし,あの時代の自分の心の動きは,このようなものだったと思います。

若い時にあれこれ悩むのは苦しかったけれど,必要なことだったと思えます。
この歳になってみれば,人生には「無駄」というものは一つもないのだということがぼんやりと分かるようになりました。

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