広島市佐伯区の市立五日市観音中で2017年7月に死亡した中学3年の女子生徒が残した遺書には,「いじめ」を示唆する内容が含まれていた(東京新聞)。
いじめに関する報道を受けて,教育委員会や当の学校の校長などが記者会見するのが常になっているが,一向に「いじめ」が消退化していく気配はみえません。
寧ろ,SNS 等のツールを使って周りの察知しにくい所で行われているのではないでしょうか。
昔のように,一対一で対決するのではなく,いじめる側が圧倒的優位に立ち,一人を徹底的に痛めつけるのが特徴になっています。
加害者側の中にも良心の呵責を感じている者もいるのでしょうが,参加を忌避したり反対すれば,今度は自分がその対象になってしまうが故に,いじめられる側に立つ勇気を持てません。
その勇気さえ持てれば,いじめる側の優位性はなくなっていくのに。
事件の詳細は分かりませんが,いじめる側は直接本人に手を下して怪我をさせているわけではないし,表面的な変化を垣間見てもそれほど傷ついているとは感じないのでしょう。
この見えない精神的な「痛み」というものが,どれほど相手に重大な影響を及ぼしてしまうのかについて,関係者を始めとする大人は理解できていないのかも知れません。
何故ならば,自分が思春期の時には,ネットもなく,ましてや SNS のツールなどはなかったから,それが与える影響について想像すら出来ません。
私の思春期の時は,専ら直接的に相手と対峙するのが普通で,そのために相手が傷ついていく様子が分かり,自分も周りも歯止めがきいていた部分がありました。
殴り合えば,相手も傷ついていたいかも知れないが,同時に自分も痛い目にあっていました。
だから,ある程度のところでお互いに「もうやめよう」という抑止があったように思います。
そのような経験から「人生の知惠」とでも言うべきものを身につけてきたのではないでしょうか。
ところが現代は,この身体的な痛みはおろか精神的な「痛み」すら見えないがために,歯止めのかかりにくい状況になっているのではないでしょうか。
又,関係者も若年の時に,直接人と対峙してこの様な経験をしていなければ,その「痛み」は理解できないでしょう。
中学の教員をしていた家内の父親が,かつて私に「荒れる生徒のこと」を尋ねたことがありました。
その生徒さんは,義理の父に荒れる理由を「お前には分からない」と言ったそうです。
当時は,中学・高校が荒れていた時代で,義理の父の中学もそうだったのでしょう。
私は,その質問に答えることなく,その場は過ぎ去ってしまいましたが,私が言いたかったのは以下のようなことでした。
人は,その経験をしていない限り,頭で幾ら理解しようとしても限界があり,特に心の襞の部分は及びもつかない。
所詮,今で言うところの「勝ち組」には分かるはずもない。
採用試験のみをくぐり抜けてきた教員とて同じでしょう。
成績優秀ではあっても,人生経験は必ずしも豊かであるとは言えません。
私に言わせれば,「勝ち組」が頭の中でいくらひねり出しても,その「痛み」を経験していない以上,机上の空論を振り回すだけではないのかと思います。
文科省が通達を出し,教育委員会は「今後はこの様なことのないように努力していく」と宣言しても,それは絵に描いた餅に過ぎないのではないでしょうか。
臨床心理士をスクール・カウンセラーとして配置したところで,その人物の人生経験が乏しければ,上述の父親のように,「お前は何も分かっていない」と思われるだけです。
何故こんなに辛辣に書くかというと,その様な地位に就く人達は,往々にして思春期に,勉学一辺倒の傾向が強く,ガチンコで人と当たる経験をしていないからです。
又,その「いじめ」を自分とは無関係のこととして過ごしてきたのではないのかという疑念があるからです。
私は,寧ろ若い頃に「ワル」をやって来て,今はまっとうな生活をしている方に意見を訊いててみるべきだと思っています。
彼らは,当時ガチンコの当たり方をしてきたために,「痛み」も「限度」も知っているはずだと思います。
果たして,その様な方からはどの様な意見が出てくるのか訊いてみたい気がします。
相手と直接対峙しない間接的な手段で精神を傷つけることは,直接殴られるよりも遥かに深い傷を負わせることをこの事例は物語っています。
そして,関係者は誰も明確な責任に問われることなく過ぎ去っていくために,誰も本腰を入れることはないでしょう。
この様な事件が発生した時は,教育委員会を始めとする関係者の「首が飛ぶ」くらいの措置を講じないと,結局事なかれ主義で終わってしまいます。
いつから我々は,自分のことだけに忙しく,他人の「痛み」に鈍感になり,勝ち組と負け組,上流と下流,正規と非正規のように人を区別することばかりに腐心し,「共に生きている」という感覚を失い始めたのでしょうか。
私は密かにそれが新たな「差別」の実態ではないかと思っています。