環境汚染や石油の枯渇問題から,車に求められるのが「燃費」一辺倒に傾いてしまっているのは,何か虚しい気がします。
しかも,世の中「ハイブリッド」が金科玉条の如く敬われ,その他の内燃機関の刷新には余り眼が行かない。
こういうところが,昔からの日本人の特徴で,どこからかブームがわき起こってくると,それが唯一の価値観になってしまう。
男性のスラックスも,いつの間にかノータックのものばかりになってしまっています。
服屋の主人と話をしていると,
「そんなの簡単ですよ。棚から一斉にツータックをなくし,ノータックだけを並べればいい」
「客からタックいりはないのか」といわれたら,
「今年はこれが流行りですからといえば,黙って買っていく」
等といっておりました。
かように,日本人は一元的な価値観に左右されやすく,多様性に対して不安感を抱いてしまう国民性があるように思います。
どんなものでも,多彩な選択肢があるから楽しいと思うし,そこに面白味もあり,その違いがあっても相手を対等に見ることを失わない。
MAZDAの援護をする訳ではないですが,内燃機関というものを刷新することが,王道であることを忘れてはいけないと思います。
ハイブリッドが出始めた時,欧州勢がそれを追いかけなかった理由は,「今まで築いてきた技術の伝承を失ってしまう」という側面があったと聞いたことがあります。
その証拠に,飛び道具に頼りすぎたTOYOTAは,エンジンの開発が大幅に遅れているようです。
本家の社長に返り咲いてから,その危機感が車内にも出来て,86などというノスタルジックカーの開発になったのでしょう。
しかし,それすらもSUBARUに頼らなければならない情けなさ。
ガリバー故の保守性の病に冒されていると思うのは,私だけでしょうか。
'70年代~'80年代にかけて,景気が良かったとはいえ,日本のメーカーには多彩な車がありました。
勿論,TOYOTAは,その牽引車であったと思います。
エコカー減税をアクアの販売に合わせてまで,売っていこうとする姿勢には,何か違うものを感じます。
40km/Lの燃費をたたき出すために,リヤのウインドを「手回し」する必要性があるのでしょうか。
燃料タンクを小さくしてまで,燃費を上げることが,本来のユーザー・フレンドリーなことでしょうか。
そんな幻惑に惑わされて,実際に乗ってみると,20km/Lちょいしか走らない。
補助金をもらったから,6年間は乗らなければならないので,気にくわなくても我慢するしかない。
何か本末転倒してしまっている状況を鑑みる時,欧州勢の正攻法が,とても輝いて見えてしまいます。
世の中にハイブリッドしかなくなったら,もう何を買っても同じになってしまいます。
そこには,何の楽しみもない。
米国人の合理主義には受け入れられるかも知れませんが,自動車を文化として捉えている欧州勢には,駆逐されるように気がしてなりません。
そこに,TOYOTAの苦戦する姿を見るような気がします。
同じプラットホームで,派生車種を沢山作れば,見かけは違いますが,乗り味なんかは全く一緒。
コストダウンになって,会社は潤いますが,それがユーザーに寄与しているとは決していえないでしょう。
ユーザーを育てる社会的義務は,自動車会社にもあると思います。
ガラパゴス化している自動車産業のことを発言しない,偉い評論家様にも多いに罪はあると思います。
それは,教員が,「学習塾」を悪しきものと発言しながら,ご子息は塾に通わせていたというのと何ら変わらないでしょう。
世界一細い注射針を生産しているのは,東京都大田区の小さな町工場であることを知って驚かされたのを覚えています。
しかも,それは熟練した工員の手作業に近いものであることも。
この様にことの大小だけで価値を判断し,小さなものを押しつぶしていく状況が続けば,欧州のように連綿と続く技術の伝承は廃れてしまい,結局のところ,安価なものを生産するために,東南アジアに進出することだけが正論になってしまいます。
一面では,それも否定できませんが,全てではないでしょう。
技術立国日本を大切にすることこそ,私達が生き残れる唯一の道ではないでしょうか。
家電産業が,不景気のため技術職を大量に解雇したツケが,今まわってきています。
それは,韓国や中国の家電産業に技術者が流れてしまい,その技術を自ら競争相手に与えてしまったからです。
自動車産業も同じく,ガリバーの行うことだけを追いかけるのではなく,その対極を行くことを認めることも,私達にとって将来をどう考えるのかの試金石になると思います。
余計な話にずれてしまいましたが,燃費を追うことを否定するものではありませんが,それが全てではないこと忘れてはならないと思うのは,私だけでしょうか。
それは,ブランドに弱い日本人の姿をさらけ出していると思うのです。