私はこんな車に乗ってきた-CX-5 に辿り着くまで-

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約40年前に運転免許を取得してから9台の車に乗ってきました。
当時(70's)の若者(特に男子)は,高校を卒業して就職すると運転免許を取得し,中古でもいいから車に乗ることが普通でした。

現在のようにネットもなく遊びといえるものはそれほど多くなかったので,大都会に住んでいるならば兎に角,地方の田舎に住んでいる者にとっては,車は移動手段として必需品であったこともあり,ローンで車を手に入れることが楽しみでした。

私は,大学卒業時に免許を取ったので,当時の若者よりも遅いのですが,すぐに車の魅力に引き込まれました。
ここでは,CX-5 に辿り着くまでに乗ってきた車の印象と得たものを記してみたいと思います。

トヨタ・カリーナ(ハードトップ)

この車は,卒業時に大学の友人に譲ってもらったもので,確かエアコンもなかったと思います。
色は焦げ茶色で,2ドアハードトップでした。
夏は,いつも窓を全開にして走っていた思い出があります。

懐かしいフェンダーミラーの車です。
足回りが柔らかかったので,当時の職場近くの整備工場に行って相談していたら,「ショックアブソーバーを交換すればいい」というアドバイスを受け,お願いしました。

仕上がった車にのると,ハンドリングがシャープになり,車がよく曲がるようになった記憶があります。
また,ふわふわ感がなくなり,とても運転しやすくなりました。
調子に乗って,アルミホイールとタイヤを装着しました。

しかし,この車はすぐに手放さなくてはなりませんでした。
というのは,その年の冬(確か12月始め),丁度路面が凍結し始める頃で,初心者の私は,その怖さも知らず峠のゆるいコーナーを下っていました。
前に軽四輪のトラックが走っていて,車間距離が近づいたのでブレーキを踏んだところ,車が一気に滑り出して,右側の崖の方向に向きました。

ガードレールはあったのですが,このままでは崖に落ちてしまうと思った私は,とっさにハンドルを左に切りました。
山側を向いたのはいいのですが,アクセルを緩めていたのかさえ分からず,車はコンクリートの壁に激突してしまいました。

その瞬間意識を失い,気がつくと,フロントガラスが縦に見えたのです。
つまり,車は運転席側を下にして横転していたのでした。

助手席のドアを開けようとしましたが,すごく重くて開けることが出来ませんでした。
幸い,前を走っていた軽トラックの方が気がついてくれ,駆け寄ってくるとドアを開けてくれました。

何とか外に出ると,車のフロントは無残に潰れていました。
「兄ちゃん大丈夫か。よう死なんかったな」,と声をかけていただいたのを今でも憶えています。

初めての冬で,しかも車を壊してしまうという洗礼をうけた私は,それ以来冬季はすごく慎重に運転することを覚えました。
確か,その方が整備工場に連絡してくれて,車の引き取りの手配や近くの診療所まで乗せてくれました。
幸い,眼鏡で鼻を怪我しただけで他には何もなかったので安心しました。

通勤手段を失ってしまったので,代わりの車を早急に手に入れなければなりません。
当時つきあっていた彼女(今の家内)のおじさんが車関係(トヨタ)の仕事をしているということだったので,そこでお願いすることにしました。

家内は県外出身だったので,そんなことは可能なのかと思いましたが,連絡してくれると,車を自宅まで配送してくれるということでした。
そんなことが可能なのかと半信半疑になりながら,車種をきかれたので「カリーナのセダン」と答えました。

トヨタ・カリーナ(セダン)

車は下図のセダンで,エンジンは 1600cc の SOHC だったと思います。

驚いたのは,社員の方が陸運局でナンバーを取得し,自宅まで自走でもってきて下さったことでした。
後で知ったことなのですが,おじさんはその会社(トヨタのディーラー)の重役で,部下の方に手配してくれたのでした。

この車にはエアコンが装備されていましたので,夏は快適に過ごせました。
前述のカリーナのホイールとタイヤは無事だったので,この車に装着し,すぐにショックアブソーバーを交換しました。
確か,カヤバの SR スペシャルだったと思います。

当時,ディーラーでオイル交換などのメンテナンスをすると,コストがとても高いので,多くの方は近くの整備工場に依頼するのが常でした。
まだ,オートバックスやイエローハットなどの自動車用品店はなく,個人経営のチューニングショップがぽつぽつできはじめた頃でした。
そこには,車好きの若者が集まり,車談義に花が咲いていました。

ある日,職場の近くにそんなちいさなショップがあることを知り,行ってみると改造した車が駐車しており,車談義に花を咲かせているのを耳にしました。
元来車が好きだったせいか,そこのオーナーともすぐに打ち解け,オイル交換をお願いすることになりました。
この時にオイルも色々なメーカーやグレードがあることを知りました。

店の中には車のパーツが沢山置かれており,私にはとても新鮮に映りました。
当時は,HKS やフジツボなどのメーカーが事業を始めた頃で,今のようにメジャーではなかったのですが,車をいじる者には面白い存在でした。
また,マフラーの交換などに対する規制もなく(あったかも知れないが意に介していなかった),割合自由にパーツを交換していたと思います。

その店にあったマフラーが気に入ったので交換の依頼をすると,適合するものを取り寄せるということになり,指定された日にうかがうとまだ届いていません。
それじゃ,オーナーが,「直接取りに行くから一緒に行かないか」,と誘われたので同乗させていただくことにしました。

車で約1時間ほど走ると,着いたのは巨大な倉庫で車のパーツが所狭しと並んでいました。
マフラーを持ち帰ると,早速取り付けようということになって,オーナーと二人で取り付けました。

格好はよくなったのですが,排気効率がよくなりすぎてかえってパワーが落ちた感じがしました。
エンジンが非力だったので,交換はオーバースペックだったのです。

ここには,暇さえあればよく顔を出していたと思います。
ここで,車のことを勉強させていただきました。

ヘッドライトの交換を行ったのもこの店でした。
当時は,シールドランプといって今ほどライトが明るくなく,夜間が走りにくかったので,「ハロゲンライト」に交換しました。

シビエやマーシャルというヨーロッパメーカーのものが全盛で,リレーでバッテリーから直接電源をとって行うものでした。
交換すると,その明るさは雲泥の差だったことを思い出します。

この車には何年乗ったか記憶が定かではないのですが,どうしても憧れの DOHC エンジン搭載の車が欲しくなり,上記のおじさんに依頼することになりました。

トヨタ・カリーナ GT(セダン)

上図はフェンダーミラーですが,購入したのはドアミラーのモデルで,1600GT は 4A-GEU 型 DOHC16 バルブを搭載していました。
色はホワイトで,ミッションは5速でした。

エンジンはイニシャルDで有名な AE86 と同じ 4A-GEU を積んでいました。
このエンジンはとても軽く,とにかくよく回りました(レッドゾーンは 7,700rpm からだったと思います)。
1,2速ではあっという間にタコメーターはレッドゾーンに達しました。

この頃は,メーカーもハロゲンバルブを採用し始めていたと思いますが,そんなに明るくなかったので,リレーを組んでバルブを交換したと思います。
これは,以前の店で教わっていたので,DIY で装着したのではないかと思います。
ヘッドライトにイエローバルブを採用するのが許されていた時代で,ちょっと凝っている人はイエローに交換していました。

私は,ホワイトの 80W か 100W を取り付けたのではないかと思います。
上記の店は他所に引っ越していたので,違う店を探し,そこで手に入れたものです。

この車は,足回りをビルシュタインに変更し,タイヤはピレリ P6(60扁平)を履かせていました。
P6 はとてもバランスのよいタイヤでしたが,値段もそれなりにしましたので,その後はブリジストンのレグノやヨコハマのアスペックを履いていました。
AE86 より車重がありましたので,それほど軽快ではなかったのですが,あちこち出かけては走り回っていたのではないかと思います。

この時代は,まだエアバッグなどは装備されておらず,ステアリングはボスを買ってきてナルディの36φに自分で変更しました(下図)。

このステアリングはとても握りやすくハンドリングがシャープになりました。
取引先の方が自動車好きで,同じくナルディのウッドを譲ってくれましたので,最後までこれを装着していました(下図)。

このステアリングは今でも自室に飾ってあります。

ブレーキもワインディングロードを駆け回っているとフェードする傾向がありましたので,前輪のみスポーツ用に取り替えました。
純正よりは減りは早かったですが,制動力がよくなって乗りやすくなりました。

同じくクラッチもカバーとともにスポーツ用に変更しました。
少し重くなるのですが,とても具合がよかったと思います。

ミッション,デフオイルも定期的に交換していました。

エンジンオイルは,自分で交換していた時代です。
ようやくオートバックスなどが地方にも出店し始め,専らカストロールを使っていました。
自宅の小さなガレージで,下にもぐり込んで行っていました。

そのせいか工具も増え始め,冬が近づくと,スパイクタイヤ(その頃はこれが一般的だった)も自分で交換していました。
何か面白い小物を見つけると,自分で取り付けていた時代でした。

この車に乗っていた時は,違う職場に転職しており,仲良くなった同僚がモータースポーツ(ダート・トライアル)をやっていたので,その会場にもよく出かけました。
また,近くで全日本ラリーが開催されるというので,二人で見に行った記憶があります。

彼の車をメンテしていた店にも連れて行ってもらい,オフロード用のタイヤや LSD(リミテッド・スリップデフ)などというパーツがあることを初めて知りました。

私は,モータースポーツをやるところまではいきませんでしたが,モータースポーツにとても興味が湧き,NHK BS で放映されていた WRC を何時も見ていたと思います。
当時はまだグループ B が存在していた時代で,どうしてこんなに速く走れるのかと驚愕した思い出があります。
アウディ・ランチア・プジョー・フォードが出走しており,日本のメーカー(スバル・三菱・トヨタ)が進出したのは,グループ B がなくなり,グループ A に絞られた時でした(アウディ・プジョーは撤退)。

アウディ・クワトロ

ランチア・ラリー037

プジョー・205ターボ16

ランチア・デルタS4

上図のランチア・デルタS4に乗っていたヘンリ・トイボネンがコ・ドライバーのセルジオ・クレストとともに死亡してしまい,グループ B は終焉をむかえたのです。

カリーナ GT も100,000kmを超え,そろそろ新しい車が欲しいと考えていたとき,クロカンブームが起き始めていました。
トヨタ・ランドクルーザーや三菱・パジェロ,日産・テラノなどが出始めていた時でした。

当時,私は自動車雑誌を毎月購読しており,その中で目に入ったのがジープ・チェロキーでした。

ジープ・チェロキー

面白そうだと思ったので,ディーラーを探すと自宅から1時間ほどのところにあったので,訪れてみるとたまたま現車が展示されていました。
色はハンター・グリーンといわれるもので,4,000cc の OHV エンジンの 4WD でした。

魅入られてしまった私は,何とか家内を説得し契約してしまいました。
しかし,下記の事情も重なって,この車は殆ど乗ることがなく手放してしまいました。

右ハンドルはよかったのですが,アメ車の定番通り作りは雑で,内装も余りよくありませんでした。
どうして買ってしまったのか今でも分かりません。

ハイオク仕様で燃費も 6km/l くらいしか走りませんでしたから,とても贅沢な車でした。
ある時,レギュラーを試しに入れたところ,坂道で激しいノッキングが起こってしまい,レギュラーとハイオクを半々にして入れたところ解消されましたので,そのようにしていました。
オクタン価というのがあり,その基準を満たさないとノッキングが起こることを知ったのもこの車でした。

ただ,4WD は3つのモードがあり,なかなか性能はよかったと思います。
走行中でも切り替えが可能で,最初の頃,冬は専らこの車で通勤していました。

しかし,それなりの役職になったので,私専用の社用車を買ってくれることになり,この車の出番はあっという間になくなりました。
乗らないものですから,バッテリーが上がってしまい,車検時に交換している始末でした。

結局,5年間車庫に眠っていましたが,これ以上維持できないと思い手放しました。
その頃には,クロカンブームも去っており,売却価格はかなり低かったと思います。

オイル交換は自分で行い,オイルフィルターはディーラーから購入していました。

新たに私の社用車になったのは,いすゞ・ジェミニのディーゼル・ターボでした。

いすゞ・ジェミニ

今までの車は,チェロキーを除き全て FR だったのですが,初めての FF でした。
子供も出来て,年齢も30代半ばに入りかけていましたので,カリーナ GT のように軽快に走ることもなく(そもそもムリ),ヘッドライトのハロゲンを明るいものに変えたくらいです。

オイル交換も出入りしている整備工場にお願いしていました。
この車には,特段突出した思い出はありません。

ただ,チェロキーよりも遥かに維持費が安く,FF 特有の癖も感じなかったと思います。
この車では,約130,000kmくらい走ったと思います。
エンジンの調子はよかったのですが,フロントのドライブシャフトが壊れてしまって乗り換えることになりました。
現在も使用しているオイル添加剤を使用し始めたのもこの車だったと思います(チェロキーも同じ)。

ディーゼルは燃料費も安く,その他の維持費も低かったので,同じエンジンの車を希望したところ,長距離を走るのは大きな車の方が安全で疲れないからといって用意してくれたのがチェイサーのディーゼル・ターボでした。

チェイサー(ディーゼル・ターボ)

チェロキーに継ぐ AT で,この時から車は全て AT 車になっていきます。
排気量は2,400CCではなかったかと思います。

ジェミニよりもよく走りましたが,エンジンはジェミニの方が軽快でした。
4,000+α からレッドゾーンでしたので,すぐにレブリミットに達してしまい,何か糞詰まりのような感じのエンジンでした。
むしろ,ガソリンエンジンのように走ろうとしていた私が間違っていたのかも知れません。

ただトルクは結構あったので,車自体は遅くなかったと思います。
やはり自分は FR の方が好きなのだと思ったのもこの車でした。

新車からオイル添加剤を使用していることもあって,エンジン自体の調子はとてもよかったです。
ターボタイマーを取り付けたのもこの車が初めてでした。

当時は,HKS などでボルトオン・ターボといって,後付けでターボを取り付けるのが流行っていた時代で,そのせいかタービンの焼き付きが自動車雑誌に掲載されていました。
それを避けるためにはアフターアイドリングが必要で,ターボタイマーで設定しておけば自動でアイドリングしてくれるというのでとりつけました。

エンジンオイルの重要性を知ったのもこの車でした。
社用車ですので銘柄の指定は出来ませんから,オイル添加剤を使用していました。

エンジン音もマイルドになって,少しは軽い感じのエンジンになったと思います。
夏に家族と泳ぎに出かけた時,帰りに車をアイドリングしていると,見知らぬ方が「これはディーゼルですか。チェイサーにもあったのですね」と仰ったことを覚えています。
近寄らなければ分からないほどディーゼルのエンジン音がしなかったのでしょう。

この車は約170,000km位走ったかと思います。
乗り換えるかとたずねられたので,またディーゼルを希望しましたが,乗用車からディーゼルがなくなっていた時代で,用意してくれたのが同じチェイサーのガソリンモデルでした。

チェイサー(ガソリン)

丁度マークⅡ・チェイサー・クレスタの三兄弟のうち,チェイサー・クレスタがなくなる前の末期モデルで,エンジンは直列6気筒 DOHC24 バルブのハイメカツインカムと呼ばれる2,000ccでした。

このエンジンはスポーツモデルではなかったのですが,割合軽快に回ったと思います。
オイル添加剤を使用し,ヘッドライトを明るいハロゲンランプに交換(ランプだけ交換できた),ホーンはマルコに変えました。
足回りは,結構良かったので純正のままでしたが,100,000kmくらいで,カヤバのニュー SR スペシャルに変えました。

AT オイルを定期的に交換した方がよいと知ったのはこの車で,30,000km毎に交換してもらっていました。
デファレンシャル・オイルも同じ様なサイクルで交換していました。

ただ,この AT は結構熱を生じやすく,夏は AT レバーの付け根のところがかなり温かったのを覚えています。
この時,添加剤の原料を買っているところが AT の添加剤を発売していたので,DIY で自分で入れることにしました。

AT オイル点検口から少しオイルを抜き,代わりに添加するというものでした。
不安でしたが,マニュアル通りに行うと,熱も余り発生しなくなり,距離を走り込んでも AT の劣化は感じませんでした。

また,100,000km近くで,スパークプラグを白金のものに,ヒューズをエーモンのスポーツ使用のものに交換しました(ヒューズは DIY)。
特にヒューズの交換は劇的で,走行距離にもかかわらずエンジンがすごく軽い感じがしたのを記憶しています。
ただ,パワー不足はいかんともし難く,車の限界を感じていました。

この時代は,スパイクタイヤが禁止になっていたこともあり,冬にスタッドレスタイヤに履き替えるのですが,余り性能もよくなかったのか,凍結路で坂のコーナーを曲がる時,少しアクセルを開けると,後輪がすぐ流れてしまい苦労した思い出があります。

まだトラクションコントロールなどの安全装備がなかった時代(オプションだったかも知れない)ですので,制御するのが困難で相当気を使いました。
先代のチェイサーの時もそうだったかも知れないのですが,ディーゼルだったので低回転からトルクが出ていたために,まだ走りやすかったのかも知れません。

この車は200,000kmを超えても元気だったので,どこまでいけるかと思っていたところ,あえない最期を迎えました。

というのは,帰宅途中のある夜,道の真ん中に立っていた鹿と正面衝突してしまったのです。
何かがいるなどとは全く思わず走っていたところ,突然視界に入っていた時には激突していました。

チェイサーは上図のように無残な姿になってしまいました。

さすがに,自分で壊しておいて,職場で用意してもらうわけにもいかず,車両は自分で購入することして,日常のメンテナンス費用だけは職場で面倒を見てもらう方法に変えました。

このチェイサーで冬場は散々苦労していましたので,今度は 4WD を探しましたところ,手頃な値段で見つけたのが,スバル・レガシィ B4 でした。

スバル・レガシィ B4

カーセンサーでレガシィ B4 で走行距離の少ないものを見つけ,ディーラーに問い合わせたところ,試乗車ということだったので現車を見に行きました。
同じ様な価格帯でターボモデルもあったので,レギュラーガソリンでいいのか,と確認しましたところ,走れないこともないが,パワーも出ないし,最悪の場合エンジンが壊れる場合もある,と言われましたので確認していた車を購入することにしました。
車を探す-Legacy-

4WD の車は絶対だったのですが,Legacy を選んだのは下の理由からでした。
⇒ Legacy を選んだ理由

初めての水平対向エンジンでしかも 4WD ですので,それなりの楽しみもありました。
Legacy 納車

Legacy の諸元や装備などを調べてあれこれ書いています。
Legacy B4 Specifications(主要諸元)-1
Legacy B4 Specifications(主要諸元)-2
Legacy B4 Equipment(主要装備)-1
Legacy B4 Equipment(主要装備)-2
Legacy B4 Equipment(オプション)

長年社用車を乗ってきたこともあって,その反動からか Legacy は足まわりをいじったりしました。
さすがスバリストと呼ばれる方々が存在するだけあって,チューニングパーツはごろごろありました。

財布と相談しながら取り付けて,その印象を書いたのが下記の記事になります。
いい年をして,子供のように遊んでいました。
Legacy B4 My Option-1
Legacy B4 My Option-2
Legacy B4 My Maintenance-1
Legacy B4 My Impression
Legacy B4 My Maintenance-2
Legacy B4 My Maintenance-3

評判通り Legacy の 4WD 性能は秀逸で一度も怖い思いをしたことはありません。
足まわりを固めてありましたので,この車でも色々なところを走りに行きました。
ターボには到底及びませんでしたが,それなりの面白さはありました。

しかしながら,この車もチェイサーと同じ様な末路を辿ってしまいました。
左フロントを鹿に体当たりさせてしまったのです。

修理できないわけではないのですが,車を引き取りに来ていただいたお世話になっているディーラーの K さんに相談すると,何とも言えないが修理には30万円くらいかかりそうですとのこと。
また,シャーシまでゆがんでいる可能性も否定できないといわれたので,現状でどうにかならないかお願いすると,事故車を引き取る業者にきいてみるとのことでした。

後日,連絡を頂き,現状で引き取ることが可能で,値段もおうかがいしお願いすることにしました。
Legacy に執着がなくなっていたのは,CVT に馴染めない自分がいたからです。
努力はしたのですが,結局ムリでした。
End Of Legacy and CX-5 Come

そして,今回目をつけたのが CX-5 でした。
自動車雑誌で話題になっており,久々に面白い車が発売されたと興味を持っていますと,Legacy の事故によってふいにそのチャンスが訪れたのでした。
CX-5 を購入してから満5年が経過し,走行距離も80,000kmを突破しましたが,この車には満足しています。
まだまだ元気で,自分の年齢と財政事情からいって,おそらくこれが最後の車になると思っています(鹿とぶつからない限り)。

今までの車でもう一度何に乗りたいかと問われますと,文句なくカリーナ GT と答えます。
レギュラー仕様にもかかわらず,これほどよくまわったエンジンは初めてでした。
作り上げた足まわりのバランスもよく,家内とあちこち遊びに行きました。

懐かしい思いをしながら色々書いてきましたが,最後までお読みいただき有り難うございました。
色々なことを教えてくれた歴代の車たちには感謝しています。

最後になりましたが,家内は私の我が儘をきいてくれて,ぼやきながらもお金をだしてくれました。
おかあちゃん,本当にありがとう。

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